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大貫氏館(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02669.JPG←南東角の土塁らしき跡
 大貫氏館は、佐野宗綱塁城とも呼ばれ、佐野氏の家臣大貫越中守政宗が天正年間(1573~92年)に築城した館である。大貫越中守は佐野氏家臣団中でも家老を務めた重臣で、戦国末期の佐野宗綱の討死後に、その後継を巡って、養子を常陸佐竹氏から迎えるか小田原北条氏から迎えるかについて、合議を行なった時の家老の一人であった。結局北条氏から氏忠が入嗣となって佐野氏を継ぎ、自ずから佐野領は北条氏の版図に併呑された。氏忠は、唐沢山城にはほとんど在城しなかったらしく、代わって城代家老の大貫越中守が城を守った。1590年の小田原の役では、大貫越中守は豊臣方に降るのを潔しとせず、自害して果てたと言う。
 大貫氏館は、唐沢山城の南東の入り口を固める位置にあり、その位置からして家臣としての信頼が高かったことが伺える。館跡は宅地化が進み、遺構はほとんど湮滅しているが、東側と南東角に土塁らしき跡がわずかに残っている。よくある方形単郭居館だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.333329/139.605235/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大貫 功

大貫の先祖は、源氏側ではなく平家の家臣の一辺であったことは、おもしろいと思いました。佐野家も平家の家臣であったのは、足利、宇都宮、栃木、大田が源氏にあって、佐野は、最も最古の平家の一団で平將門を滅ぼした一団であることは、残念でしたが、平安末期の乱世と、未熟な世代のため、やむを得ないのでしょう。歴史をどう学ぶか、徳川家康の統治は、乱世にあって、中国の毛沢東と同様な政策をとって沈静化しました。しかし、この封建制度を美化した教育をやめて、戦国の武将の行なった行為は、残虐な事だったという教えをすべきでしょう。
by 大貫 功 (2021-01-17 15:50) 

大貫 功

全く関係ないとは思いますが、佐野氏と佐竹の関係、どちらも山城の時代で共通しております。歴史を振り返りますと農民の中から武力の強いものが出て、武士なるものの集団を形成し、徳川封建制に至るまで無益な争いを繰り返した日本の歴史です。現代もまた形は変わるものの役人というお勉強のできるものが、歴史を繰り返していると考えます。東大に代わるAI役人が、安い管理費で活躍する日を期待して、役人は、人間がすべきでは無い時代がくる日を願います。国も含め議員と呼ばれるものは博士論文を持ってして、国の行く末のプランを実行すべきです。
by 大貫 功 (2021-04-29 10:52) 

アテンザ23Z

>大貫 功さん
設定エラーでコメントに気付くのが大変遅れてしまいました。申し訳ありません。
古い歴史を現代の価値観で考えることは、かなり難しいと思います。何しろ、「現代の残虐行為=当時の武勲」ですから。もちろん、事実を踏まえずに戦国武将などを美化することは、厳に慎まなければならないことだと思います。
by アテンザ23Z (2021-12-20 21:25) 

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