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沼ノ平楯(山形県西川町) [古城めぐり(山形)]

DSC09456.JPG←二重堀切と主郭虎口
 沼ノ平楯は、谷地城主白鳥氏の家臣東海林隼人佐昌種の居城と伝えられる山城である。東海林氏が居住したのは天正年間(1573~92年)と言われるが、庄内越えの間道を押さえ、六十里・月山両街道に睨みを効かせる要害であり、それ以前から築かれていたと推測されている。現地の石碑によれば、白鳥十郎長久が山形城中で最上義光に謀殺された時、最上家に嫁していた長久の息女日吉姫は、難を逃れて夜通し山道を越えて、この地に逃れた。その後、度々最上勢が沼ノ平楯を攻めたが、その都度昌種はこれを撃退した。しかし烏川に逃れさせていた日吉姫他の婦女子が、月山越えの最上勢に捕らえられると、昌種も遂に最上勢に降伏したと言う。

 沼ノ平楯は、東側を綱取川による沢筋で分断された、標高470mの舌状丘陵の上に築かれている。沼の平集落の北に位置する丘陵であるが、目印になるものが少なく、場所が非常にわかりにくい。沼の平バス停付近から丘陵上の畑地へと登る道を登り、途中で左手の山林方向に分岐する道を入っていくのだが、この分岐がわかりにくい。ここさえ間違えなければ、後は踏み跡を辿ってしばらく進めば広い山道に出て、それから数分で城にたどり着く。沼ノ平楯は、基本的には単郭の小規模な城で、主郭手前には丘陵地を分断する二重堀切があり、そこから土橋・虎口を経て、周囲に土塁が巡らされた主郭に入る。主郭の南東部にも虎口が開いており、東の沢筋に水を汲みに行くためのものであろうか?主郭内部は3段程の平場に分かれており、最上段には櫓台と土塁が築かれ、その背後には三重堀切が穿たれている。この三重堀切は、2つ目は浅いが土橋が掛かっており、動線を土塁によってS字状に屈曲させた構造となっている。その先の北尾根は薮が多いが、途中に土橋の掛かった小堀切と、更にその先の笹薮で埋もれた北尾根には片堀切が穿たれている。一方、主郭の南側下方には、傾斜した広い緩斜面が広がっており、周囲の塁線がはっきりしているので、ニノ郭か馬場に相当する曲輪だった様である。いずれにしても簡素な造りの城だった様だ。それにしても、主郭内は綺麗に伐採されており、せっかく石碑まで建っているのだから、登り道に案内表示を出してもらえるとありがたいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.458025/140.108804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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