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石脇城(静岡県焼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01653.JPG←主郭
 石脇城は、まだ今川氏の客将であった頃の伊勢新九郎長氏(後の宗瑞、いわゆる北条早雲)の居城である。室町幕府将軍の奉公衆であった備中伊勢氏の庶流伊勢盛貞の娘(北川殿)は、今川義忠の正室となっていた為、その縁故で盛定の子新九郎長氏(宗瑞)は1473年頃、今川氏に客将として迎えられ、石脇の地を与えられて石脇城を築いたと言われている。1476年、義忠は遠江遠征の帰途、塩買坂で襲撃されて不慮の戦死を遂げ、跡目争いが生じた。義忠の嫡子竜王丸(後の今川氏親)はまだ幼く、伯父の小鹿範満を推す一派により、範満が一時的に当主となった。この時、自身にとっては甥に当たる竜王丸を支持する長氏は、東奔西走して調停したとされる。(但し近年の研究では、この時点での長氏の駿河下向には否定的見解が出ている。)竜王丸成人後、範満は当主の座を返すことになっていたが、範満は一向に譲位する気配がなく、北川殿の要請によって長氏は、1487年、府中館の範満を奇襲して攻め滅ぼし、竜王丸を当主の座に据えることに成功した。その功によって、長氏は新たに富士下方12郷を与えられ、興国寺城を築いて移ったと言う。長氏の石脇城在城は短かったと推測されるが、石脇在城を証する文書が残っており、一時期、石脇城を居城としていたことは間違いないらしい。長氏が興国寺城に移ると、石脇城は廃城になったと思われる。

 石脇城は、東名高速、日本坂PA東側に位置する、比高30m程の独立小丘に築かれている。最上部に主郭を置き、その南側にニノ郭・三ノ郭を連ねている。主郭は、西端に大日堂が鎮座するほか、その東側の大半はみかん畑に変貌しているが、わずかに土塁が残っている様である。ニノ郭は主郭の下方に位置し、上部が傾斜した曲輪で、一部が墓地に改変されているほか、西側に腰曲輪を伴っている。三ノ郭には城山八幡宮が鎮座し、背後に土塁らしき土盛りが見られるが、改変もあって遺構はあまり明確ではない。石脇城はかなり小規模な城で、明確な堀切遺構も見られず、平場群だけで構成された簡単な城砦だった様である。石脇城と興国寺城の規模を比べると、宗瑞の今川家中での立場の変遷が見て取れるようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.888611/138.324429/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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