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勝間田城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC03117.JPG←ニノ郭土塁と三ノ郭
 勝間田城は、この地の国人領主勝間田氏の居城である。勝間田氏は、保元の乱の頃より勇名を馳せた一族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は『夫木和歌抄』を編纂するなど、地方豪族としては文化的にも高い水準にあったことを示している。鎌倉末期の元弘の乱の際には、楠木正成の籠った赤坂城、千早城の戦いで、勝間田一族は攻守両陣営に分かれて参戦した。室町時代に入ると、将軍の直属軍として応永の乱(1399年)や永享の乱(1439年)で活躍した。勝間田城は、この頃の応永年間(1394~1428年)に勝間田定長が築いたと推測されている。応仁文明の大乱が生起すると、勝間田氏は遠江守護で西軍に属した斯波義廉に属し、東軍主将の管領細川勝元の指令で遠江制圧に乗り出した駿河守護今川義忠に対抗した。しかし1476年、今川勢の猛攻によって勝間田城は落城し、一族は四散した。ここに平安以来の名族勝間田氏は実質的に滅亡した。

 勝間田城は、牧之原台地の東に伸びる支尾根に築かれた山城である。広い面積を有した城で、主郭を中心として、北側に2つの北尾根曲輪と広大なニノ郭・三ノ郭・西三ノ郭が連なり、南側には南曲輪と腰曲輪、東には東尾根曲輪と物見台を備えている。要所は堀切で分断され、特に主郭背後の堀切は深さ5m程と規模が大きい。その他の堀切は小規模であるが、東尾根の曲輪群は五重堀切で分断されており、厳重な防御を施している。南曲輪は主郭より高所にあるが、主郭背後の高土塁で南曲輪からの視界を遮っている。ニノ郭・三ノ郭・西三ノ郭は、土塁などで仕切られた広い曲輪で、土塁は折れを持ち、虎口が形成されている。主要な曲輪の周囲には、幾つもの小郭や腰曲輪が配置され、そこへ降る城道・虎口も明瞭に残っている。南曲輪の先の尾根にもわずかに3つほどの堀切が確認され、一騎駆けの細尾根を防御していた様である。城の主要部では、堀切の手前に土塁が築かれて堀切の分断効果を増す定石通りの縄張りとなっており、やや古い形態とはいえ、しっかりした普請がされている。大正12年に、城跡の破壊を惜しんだ地主の方が土地を町に寄付したそうで、現在ではほぼ全域が綺麗に公園化され、遺構が素晴らしく整備されている。遠江の戦国期以前の中世城郭として、非常に貴重である。
主郭背後の堀切→DSC03187.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.778396/138.157099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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らんまる

やはり堀切を認識されておりましたか。

あまり期待していなかったので、小生も三連の堀切を見た時にはチョッと感動(笑)
戦国時代にスペアの逃げ込み城として追加普請されたのだと妄想しておりますが、ちょっと手を加えれば立派な要害です。
どこの城へ行っても茶畑ばかりで閉口したのを想い出しました(笑)
by らんまる (2013-06-08 22:19) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
そうですね~。茶畑多いですね、静岡の山城は。
こんなところまで?っていうぐらい山の上の方まで茶畑になってましたね。
場所によっては、結構な斜度(40度とか)の斜面まで茶畑でした。
静岡県人、恐るべしです。

でも茶畑からちょっと藪の中に飛び込むと、
綺麗に堀切が残っていたりするので、結構嬉しかったです。
by アテンザ23Z (2013-06-08 23:56) 

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