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小山城(静岡県吉田町) [古城めぐり(静岡)]

DSC03339.JPG←圧巻の三重の三日月堀
 小山城は、遠江に侵攻した武田信玄が新造した城である。その前身は、今川氏が築いた山崎の砦とも言われるが明確ではない。1568年より今川領への侵攻を開始した信玄は、大井川を境として徳川氏と旧今川領を分割領有したが、これを反故にして更に兵を西進させてこの地を占領した。ここに徳川家康との間で攻防戦が繰り広げられ、1570年には一旦徳川氏の手中に帰した。しかし、翌年信玄は2万5千の兵で小山を攻めて奪還し、馬場美濃守信房に命じて新たに小山城を築いた。そして信玄は、越後上杉氏から亡命した客将大熊備前守朝秀の子長秀を小山城主として守らせた。以後、東海道を押さえる諏訪原城と共に、横須賀街道の押さえと海上監視のため、武田氏の東遠の拠点の一つとして重視された。1575年の長篠の合戦で武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、遠江の武田領に対して家康は激しい攻勢をかけて圧迫し、1581年には難攻不落と言われた遠江の要衝高天神城をも攻め落とした。1582年2月、織田信長が大軍で本格的な甲州征伐を開始すると、城将大熊長秀は勝頼救援の為、甲斐に急行し、城兵も自ら城に火を放って甲斐へ落ち延びた。以後、小山城は廃城となった。

 小山城は、湯日川南岸の段丘先端に築かれた崖端城である。主郭・ニノ郭を連ねて堀切で分断した、よくある縄張りであるが、特徴的なのは武田氏の城郭特有の丸馬出が築かれていることである。主郭の丸馬出は小規模なものであるが、ニノ郭西側に築かれた丸馬出は、三重の三日月堀で防御された圧巻の規模のもので、特に三重の三日月堀というのは数多い武田の城でも類例がない。虎口は、この巨大な三重堀で囲まれた丸馬出の北側と南側に作られており、北側が大手である。大手虎口の北側も自然地形に手を加えた堀状の窪地となっており、北端に物見台状の独立した土壇がそびえている。丸馬出南側の搦手虎口には、虎口側面を防衛する腰曲輪が築かれ、屈曲した堀で周囲を区画している。現在城址は能満寺公園に変貌しているため、改変を受けたせいか、主郭周囲の土塁などは低いささやかなものしか残っていない。堀切は直線状の単純なもので、丸馬出がある以外、横矢掛かりはほとんどない。堀の南端部だけ、わずかに横矢を掛けているだけである。ニノ郭の三重三日月堀の丸馬出と、それ以外の遺構の規模と構造がミスマッチで非常にバランスが悪い縄張りに見えるが、後世の改変の影響が大きいのであろう。いずれにしても三重三日月堀は希少であり必見である。ちなみに模擬天守は全く余計な飾り物である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.779373/138.247350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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