渥美源五郎屋敷(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]
←民家周囲に残る土塁
渥美源五郎勝吉は、徳川家康の家臣である。横須賀七人衆の筆頭で、大須賀康高配下でただ一人槍の名人であった。伝承では、1578年、源五郎は康高に命ぜられて斥候に行った際、高天神城兵と出くわした。時あたかも夜明け時で朝霧が立ち込め、辺りがよく見えないのを幸いと、源五郎は伏兵が大勢いるように見せかけ、慌てて坂を下ろうとした武田軍6人の首を討ち取り、以来「首取り源五」と呼ばれるようになったと言う。
渥美源五郎屋敷は、高天神城の北東800m程の位置にあり、現在は民家の敷地となっている。しかし北側と西側に土塁が残り、標柱が立てられている。たまたま高天神城の帰りに標柱を見つけ、訪問した。わずかでも遺構が残っているのは、やはり嬉しいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.703818/138.040670/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
渥美源五郎勝吉は、徳川家康の家臣である。横須賀七人衆の筆頭で、大須賀康高配下でただ一人槍の名人であった。伝承では、1578年、源五郎は康高に命ぜられて斥候に行った際、高天神城兵と出くわした。時あたかも夜明け時で朝霧が立ち込め、辺りがよく見えないのを幸いと、源五郎は伏兵が大勢いるように見せかけ、慌てて坂を下ろうとした武田軍6人の首を討ち取り、以来「首取り源五」と呼ばれるようになったと言う。
渥美源五郎屋敷は、高天神城の北東800m程の位置にあり、現在は民家の敷地となっている。しかし北側と西側に土塁が残り、標柱が立てられている。たまたま高天神城の帰りに標柱を見つけ、訪問した。わずかでも遺構が残っているのは、やはり嬉しいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.703818/138.040670/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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