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宇津山城(静岡県湖西市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05345.JPG←本城の腰曲輪の石塁
 宇津山城は、1524年に今川氏親によって遠江・三河国境の押さえとして築かれた城である。遠江を制圧した氏親は、更に三河進出のため軍を進めたが、戸田氏や松平氏の反攻によって三河進出は一進一退を繰り返し、その影響を受けて西遠江も決して安泰というわけにはいかなかった。この頃今川氏の西遠江の拠点は曳馬城(後の浜松城)であったが、手狭な上、三河の手前に浜名湖という障壁が横たわっていて三遠国境の押さえとしては不十分であった為、新たに浜名湖西岸の半島状に突き出た宇津山に、宇津山城を築いた。宇津山城は重要な位置を占めていた為、城将は重臣から選ばれ、初め長池六郎左衛門尉親能、次いで小原備前守親高が在城し、享禄年間(1528~32年)以後は朝比奈氏が4代に渡って在城した。1560年、桶狭間の合戦で今川義元が討死すると、松平元康(徳川家康)は今川氏から離れて自立し、三河を今川氏から取り返した。その後も徳川氏の攻勢は続き、1568年には湖西方面に侵攻して宇津山城を攻略した。宇津山城を手に入れた家康は、松平家忠を入れて城を拡張し、遠江中部への前進基地とした。その後、1572年には松平備後守清善を在番させたことが知られるが、廃城の時期は不明である。

 宇津山城は、前述の通り浜名湖西岸に半島状に突き出した、標高50mの宇津山に築かれている。城域は大きく2つに分かれており、高山と呼ばれる最高所に本丸を置いた南北に長い本城(仮称)と、正太寺鼻と呼ばれる東側の突端に築かれた出城(仮称)がある。
 本城は、東麓の正太寺から登っていった先にあり、主郭は墓地横の広場となっている。ここまでは寺から車道が延び、主郭南側は地形が大きく改変されてしまっている。しかし本丸の北辺に大土塁と空堀が残っている。その先に南北に長いニノ郭と、その北側から西側にかけて三ノ郭が広がっている。二ノ郭は藪が多く、形状の把握がやや難しいが、周囲にわずかに土塁が築かれている。その下方の三ノ郭は、周囲に石塁が築かれている。この石塁は遺構とされているが、外側でなく内側に積まれていることからすると、後世の耕地化に伴う土留であった可能性も捨てきれない様に思う。また三ノ郭内には井戸跡が2ヶ所明瞭に残っている。三ノ郭の北面から西面にかけての斜面には腰曲輪群が多数ある。ここにも見事な石塁群が散在し、これも後世の耕地化に伴う改変の可能性が残るが、一部には明らかな虎口構造も見られ、遺構と見て良いだろう。この城は浜名湖の水運を利用していたらしく、湖面まで腰曲輪群が続いている様だ。
 一方、正太寺鼻の出城であるが、日本城郭大系の要図に記載された湖岸から登る城道は、かろうじて藪の中に見つかったが、その先を登っていった先の主郭は耕作放棄地の藪で、遺構の確認は困難である。城道に沿って腰曲輪群が展開しており枡形状の地形も見られる。この湖面から通じる城道は、この城が浜名湖水運を利用していたことの証拠なのだろう。出城には、西側の車道から通じる道もあるようだが、民家の私道らしく、この道の先にあるとされる虎口と空堀は未確認である。

 宇津山城は、本城の遺構がよく残るが、後世の改変の疑いもあり、中々判断に迷う城である。遺構とすれば、今川氏の城では数少ない石垣の残る城である。
本城本丸の土塁と空堀→DSC05280.JPG
DSC05430.JPG←出城の枡形状地形

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.755964/137.533325/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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