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相良城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07660.JPG←二ノ丸の土塁跡
 相良城は、江戸時代後期に老中として専権を振るった田沼意次が築いた近世城郭である。しかしその前身は、戦国時代末期にまで遡る。即ち、長篠合戦で大敗後、徳川家康に遠江に侵攻され、諏訪原城まで落とされて劣勢となっていた武田勝頼は、1576年3月、要衝高天神城を死守するため、兵站基地として高坂弾正に命じ相良古城を築いたとされる。また同じ年には、武田・徳川両水軍によって相良沖海戦が行われ、相良古城が武田水軍の根拠地でもあったことが推測されている。1581年に高天神城が徳川氏に攻め落とされると、相良古城も徳川氏の持ち城となり、その後、松平家忠に命じて城を修築した。しかし翌82年に武田氏が滅亡すると、遠江・駿河は徳川領となり、戦略的意義を失った相良古城は、小山城滝堺城と共に廃城となった。1584年には、家康は古城の一部を改修して鷹狩りの際に使用する相良御殿とした。しかし元和以降は荒廃し、江戸中期の1710年に至って、寺社奉行本多忠晴が入封し初代相良藩主となり、旧御殿地に居館造営を手掛けたが、1746年に陸奥泉に移封となり、同年、若年寄板倉勝清が入封して城地の拡張整備に着工したが、間もなく移封となった。1758年、将軍家重・家治によって重用された側用人田沼意次が相良藩主となった。意次は更に昇進を重ね、1767年、2万石に加増されて、家治から相良築城を許された。翌68年、相良城は近世城郭として新たに築城が開始され、1780年に11年の歳月を掛けて竣工した。往時は田沼全盛時代を象徴する壮麗な城であったというが、1782年頃から始まった天明の大飢饉と、1784年に子の意知が幕臣佐野政言に江戸城中で殺害されて以降、権勢は次第に衰え、86年、家治の死と共に失脚した。その後、松平定信が老中となると、田沼氏は陸奥に移封となり、1788年、相良城は収公の上、徹底的に破却された。着工以来わずか20年の短命の城であった。

 相良城は、萩間川が河口付近で大きく蛇行する部分の西岸に築かれた平城である。往時は2重3重に堀を巡らした城であったらしいが、徹底的な破却とその後の市街化で、往時の遺構はほとんど残っていない。わずかに相良小学校校庭の南端に二ノ丸土塁跡が残るだけである。この他では仙台河岸と呼ばれる石垣遺構があるらしいが、時間もなく見つけられなかった。尚、藤枝市の大慶寺に本丸御殿が移築されて残っている。
大慶寺に残る御殿→DSC05035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.686122/138.198341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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