田川館(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]
←館跡に建つ田川小学校
田川館は、当地の豪族田川氏の居館である。田川氏は、奥州藤原氏の始祖藤原清衡の裔と言われ、日本海側の主要交通路、越後街道の庄内側出入口に当たる田川郡の領主として勢威を誇っていた。1187年、兄源頼朝から追討を受けた源義経が、平泉を目指して越後街道を通って庄内に差し掛かった時、田川太郎実房との間に親交を持ったことが『義経記』に記載されている。1189年、頼朝は28万4千の大軍を率いて奥州征伐を断行し、頼朝率いる本軍は白河関から北上し、比企能員、宇佐美実政率いる別働隊は越後路を進み、鼠ヶ関から庄内に侵入した。田川太郎行文は、秋田三郎致文と共に迎え撃ったが、精強な鎌倉勢に敗れて両将は討死し、田川氏は滅亡した。
田川館は、大山川とその支流少連寺川に挟まれた平地上に位置し、現在の田川小学校付近に築かれていた。大正元年に小学校が建設されるまでは土塁が残っていたと言うが、現在は遺構は完全に湮滅しており、わずかに田川氏の事績を伝える解説板が建っているだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.685744/139.747971/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
田川館は、当地の豪族田川氏の居館である。田川氏は、奥州藤原氏の始祖藤原清衡の裔と言われ、日本海側の主要交通路、越後街道の庄内側出入口に当たる田川郡の領主として勢威を誇っていた。1187年、兄源頼朝から追討を受けた源義経が、平泉を目指して越後街道を通って庄内に差し掛かった時、田川太郎実房との間に親交を持ったことが『義経記』に記載されている。1189年、頼朝は28万4千の大軍を率いて奥州征伐を断行し、頼朝率いる本軍は白河関から北上し、比企能員、宇佐美実政率いる別働隊は越後路を進み、鼠ヶ関から庄内に侵入した。田川太郎行文は、秋田三郎致文と共に迎え撃ったが、精強な鎌倉勢に敗れて両将は討死し、田川氏は滅亡した。
田川館は、大山川とその支流少連寺川に挟まれた平地上に位置し、現在の田川小学校付近に築かれていた。大正元年に小学校が建設されるまでは土塁が残っていたと言うが、現在は遺構は完全に湮滅しており、わずかに田川氏の事績を伝える解説板が建っているだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.685744/139.747971/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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