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造海城(千葉県富津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3418.JPG←岩盤を削った横堀
 造海城は、安房里見氏の水軍基地となった城である。元々は、真里谷武田信興が、上総に勢力を拡張していく中で、里見氏の北上を防ぐ為に峰上城を築き、更に1461年頃に造海城や金谷城を築いたとされる。その後、真里谷丹波守信隆が城主となったが、1534年、真里谷武田氏家中で内訌が生じ、信隆とその子信政は椎津城に立て籠もったが、小弓公方足利義明に攻められて敗走を重ね、造海城に逃げ込んだ。その造海城も、1537年、小弓公方に服属した里見義堯に攻撃され、信隆・信政父子は小弓公方に降伏し、信隆は小田原の北条氏綱の元に追放された。この攻城戦の際、敗色濃厚の武田氏は一計を案じ、この付近の景色を詠んだ和歌を百首作れば開城するという条件を出したところ、里見の将はたちどころに百首を詠じて届けた為、開城降伏したと言われ、それ故「百首城」とも別称されたと言う。これ以後、造海城は里見氏の支城となり、重臣の正木淡路守が城代となって、北条氏の三浦水軍に対峙する里見水軍の根拠地となったと考えられている。1590年、豊臣秀吉の仕置きにより、里見氏が上総を没収されると廃城となった。その後、長く使用されることはなかったが、江戸後期に入り異国船が日本近海に頻繁に出没するようになると、1810年、老中松平定信の命で城址に砲台が置かれる様になった。

 造海城は、北条氏の水軍基地浦賀城の浦賀水道を挟んだちょうど対岸、標高100mの城山に築かれている。城山全体を城塞化した広い城で、各所に横堀状の城道や曲輪が築かれている。山稜上に4つほどの曲輪を連ね、更に西に伸びる尾根上に出曲輪を築いている。西出曲輪(Ⅲ郭)には多数の曲輪群が配置され、最上部の広い曲輪には削り残しの石塁や腰曲輪に通じる虎口が築かれている。また削り残しの土塁の先に、堀切を兼ねた虎口と物見台があり、西出丸群の最下方の曲輪には近世に築かれた砲座跡も明瞭に残っている。一方、本城域には山稜上の曲輪群の他に、岩盤を削り切った豪壮な横堀や、貯水池の様な水堀があるが、この付近には神社があったらしく、近世の改変の可能性があり城址遺構かどうかは不明瞭である。殊に一部に見られる石積みは明らかに近世の遺構と考えられ、また石段なども見られるので、一部はかなり後世の改変を受けている様だ。但し、基本的には城址遺構である堀や切通しを利用していると考えられる。山稜上の曲輪群では、主郭~Ⅳ郭間の細尾根には小堀切が穿たれ、Ⅳ郭の先は岩盤を削りぬいた堀切が穿たれている。更にその先に小規模なⅤ郭がある。この城の大手は南の尾根筋と言われ、この南尾根にも高い物見台を持った出曲輪(Ⅶ郭)が築かれている。ニノ郭からこの大手に繋がる部分にも堀切や横堀状の城道が築かれ、徹底した動線の防御が図られている。
 造海城は、中世遺構と近世遺構の区分が難しいながらも、岩盤を削りぬいた堀切・横堀・切通し虎口など上総・安房の城の特徴が見られ、よく遺構を残した城と考えられる。
西出曲輪の堀切兼用の虎口→IMG_3360.JPG
IMG_3437.JPG←貯水池の様な水堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.205863/139.839974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※ローマ数字の曲輪の名称は、『千葉県の歴史 資料編 中世1』の縄張図に拠った。
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