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佐貫城(千葉県富津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_3158.JPG←主郭の土橋と大空堀
 佐貫城は、上総西部を押さえる拠点城郭である。その重要性から、中世室町時代から明治維新に至るまで使用された。創築は明確ではなく、関東管領上杉憲忠の重臣長尾氏が築いたとも、或いは応仁年間(1467~69年)に真里谷武田氏の一族武田義広が築いたとも言われている。佐貫城がはっきりと歴史上に姿を現すのは真里谷武田氏時代で、1537年、真里谷武田氏家中で内訌が生じ、武田信隆の拠った佐貫城は武田信応を支援する小弓公方足利義明・里見義堯により攻め落とされた。翌38年、第一次国府台合戦で小弓公方が滅亡し、里見氏も一時勢力を弱めたが、後に佐貫城は里見方の持ち城となって、義堯は久留里城主となり、子の義弘を佐貫城主とした。1556年には、里見義弘は佐貫城を里見氏の本城とした。1564年、第二次国府台合戦で義弘が北条氏康に大敗すると、北条氏に上総まで侵攻された。1567年、佐貫城をめぐる攻防の中で三船山合戦が行われ、北条方が大敗した。後に里見氏の本拠が安房に移ると、佐貫城には家臣の加藤伊賀守を置いたが、引き続き里見氏の持ち城であった。1590年の小田原の役の際、豊臣秀吉は里見義康の遅参を理由に上総を没収し、佐貫城は里見氏の手を離れた。徳川家康が関東に入部すると、内藤家長が佐貫城主となった。これ以降、近世城郭として整備され、一時期廃城となったものの松平氏・阿部氏が城主となり、幕末まで存続した。

 佐貫城は、標高60mの山稜上に築かれた城である。頂部に広めの主郭を置き、その西側に大空堀と土橋を挟んで広いニノ郭を置いている。また更に西側の谷戸部に数段の平場で構成された三ノ郭を配置し、大手に石垣の櫓台を築いているが、それら中枢部の曲輪以外は、細尾根とその側方に築かれた腰曲輪から成る、上総に多い細尾根城郭である。一部は地元の城址友の会によって整備されているが、城域の大半は薮が多く、遺構の確認が難しい。特にニノ郭は大半がひどい竹藪に覆われ、奥に櫓台があるが接近が難しい程である。主郭は東西に物見台が張り出し、西の物見台とニノ郭櫓台の間は大堀切で分断されている。ニノ郭と三ノ郭の間には、岩盤をくりぬいた横堀が築かれている。主郭の南東部には搦手があり、その下方の虎口には櫓台が築かれ、その先に尾根を断ち切る城道兼用の大堀切が穿たれている。この他、牛房谷の谷戸を挟んだ東の尾根上にも堀切・横堀や腰曲輪群が築かれている。以上が城の主要部で、それ以外にもかなり広範に遺構が残っているらしいが、主郭以外は全体に薮が多いので遺構の確認が容易ではなく、それ以上の踏査は諦めた。帰り際、城址友の会の人達から城址整備について意見を聞かれたが、その熱意があれば数年後には整備された城になるだろうと思った。今後に期待したい。
主郭とニノ郭間の大堀切→IMG_3171.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.265461/139.896783/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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