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勝山城(千葉県鋸南町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4026.JPG←ニノ郭の先の石橋と堀切
 勝山城は、安房四氏の一、安西氏の居城であったと言われている。安西氏は三浦氏の庶流と言われ、源頼朝が石橋山で大敗して安房に逃れてきた時に、当地の豪族安西景益が一族を率いていち早く臣従し、以後、この地の地頭として勢力を張った。時代は下って室町後期に安房に入部して白浜城を築いた里見義実が、安房国内の擾乱に乗じて安房一国を平定した際、安西勝峰は義実に降り、以後、里見氏の家臣となった。天正年間(1573~92年)には、里見氏の重臣正木安芸守輝綱が勝山城主であったとされ、この頃には里見水軍の拠点の一つとして拡張整備され、対岸の小田原北条氏の三浦水軍と対峙していたと思われる。1614年に里見氏が改易されると、内藤氏が入部し、勝山城北麓に陣屋を構えた。その後、酒井氏が入部し、幕末まで続いたが、江戸時代には山城の勝山城は機能していなかったであろう。

 勝山城は、勝山漁港の南にそびえる標高80mの山稜上に築かれている。上総・安房に多い典型的な細尾根城郭で、尾根上には物見台程度の小さな平場しか存在せず、主要な曲輪は全て尾根側方を削平した平場に存在している。主郭は、山頂付近の神社の1段下にある曲輪と思われ、現在展望公園の様に整備されている。神社背後の山頂部は物見台と考えられるが、太平洋戦争中の軍隊の塹壕か何かと思われる、意味不明の穴と溝が掘り込まれている。この東尾根には大堀切が穿たれて尾根筋を分断している。ニノ郭は南尾根の先に切り開かれた曲輪で、辺縁部を低土塁で囲み、物見台を築き、2ヶ所の虎口が造られている。特に四ノ郭へと繋がる搦手は、岩盤を削り残した城壁の真ん中を掘削した、岩盤掘削虎口となっている。ニノ郭の搦手虎口の先も馬出し的な曲輪となっている。この先を西尾根に向かうと、堀切と岩盤削り残しの土橋ならぬ石橋が確認できる。その先にも所々小郭と尾根側方の帯曲輪を築いた細尾根が続き、四ノ郭に至る。四ノ郭も削り残しの大石塁で背後を防御し、上は腰曲輪を有した物見台となっている。この他、主郭~ニノ郭間の西側山腹にある三ノ郭の北端部にはL字型土塁と櫓台が築かれ、その下方には腰曲輪が築かれている。数年前まで斜面崩落で道が通れなくなっていた様だが、現在は主郭までの登山道が整備されている。
ニノ郭の城壁と掘削虎口→IMG_4019.JPG
IMG_4106.JPG←山頂東側の大堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.108321/139.827828/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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