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宮本城(千葉県南房総市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_4567.JPG←支尾根最南端の二重堀切
 宮本城は、安房里見氏の支城である。里見氏家中の内乱「天文の内訌」の際に里見義豊方の城であった。元々は1491年、里見氏2代成義が稲村城の支城として築き、3男実堯を城主としたと言われている。実堯は、兄義通が死ぬと、その嫡子義豊が幼少であった為、遺言によりその後見となって稲村城に入り、替わって義豊に中里源太左衛門・本間八右衛門などを付けて、宮本城に居城させた。1533年、義豊は叔父実堯を稲村城に攻め滅ぼして稲村城に入り、宮本城には宮本宮内・鎌田孫六らを置いて守らせたが、翌34年の犬掛合戦で実堯の子義堯に撃ち破られると、敗走の後自刃して滅亡し、宮本・鎌田両名も討死した。以前は宮本城もこの時に廃城になったと考えられていたが、近年では戦国後期に小田原北条氏に対する備えとして、存続していたと推測されている。

 宮本城は、標高183m、比高153mの城山に築かれた山城である。かなり広大な城域を有した城で、山頂の広く平坦な主郭を中心として腰曲輪を廻らした主城部と、東側の背後の尾根筋に築かれた細尾根城郭としての遺構群とに大きく大別される。まず主城部は、主郭の北側斜面に多数の段曲輪群と腰曲輪を連ね、更にその西側下方に大きな曲輪を展開し、中腹部には外縁部に大土塁を廻らした広い空堀状の曲輪を置いている。主郭には主殿跡と思われる方形の土壇が見られる。主郭周囲は腰曲輪が取り巻き、東尾根とは堀切で分断されている。
 東尾根には物見台や小堀切が築かれ、その先に広い物見曲輪が築かれて、東尾根の司令塔的役割を担っていた部分と考えられる。ここから北に派生する支尾根にも物見台や腰曲輪が連なり、先端には城道側方を二重竪堀によって動線制約している構造が見られる。一方、先程の広い物見曲輪の更に東の先にも櫓台が築かれている。ここから北東と南に尾根が派生するが、どちらも堀切で分断している。北東の尾根はその先の出曲輪で終わっているが、南の支尾根は更に細尾根曲輪群が展開している。南に行くと石積みの残る物見台と堀切があり、更に南に大きな出曲輪群があって、最南端に大きな二重堀切が穿たれて、城域が終わっている。この他には、南支尾根の付け根の堀切の側方に、谷戸に向かって三角形の土壇を挟んだ変則的な二重竪堀状の虎口が見られる。また主城部西側に横堀状の城道が伸びており、その先は屈曲して竪堀状となり、登城道に上方から攻撃できるような構造となっている。
 曲輪を連ねただけの主城部と、東尾根の遺構群とで築城思想が異なっており、2つの側面を併せ持つ興味深い遺構である。
主城部と東尾根を分断する堀切→IMG_4475.JPG
IMG_4599.JPG←横堀状の城道
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.059815/139.868845/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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