池和田城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]
←主郭に残る土塁
池和田城は、安房里見氏と小田原北条氏との間で争奪戦が繰り広げられた城である。城の創築は明確ではないが、鎌倉時代に和田太郎正治の居城であったと伝えられている。戦国時代になると長南武田氏の重臣多賀氏の居城となり、長南武田氏が里見氏の勢力下に入ると多賀氏もそれに従ったが、1564年の第二次国府台合戦で里見氏が北条氏に大敗を喫すると、勢いに乗じた北条氏に上総まで攻め込まれ、池和田城も北条氏政の大軍に囲まれた。第二次国府台合戦で討死した多賀越中守高明の子多賀蔵人・兵衛兄弟の奮戦と、要害堅固な城に北条方は攻めあぐねたが、城内に内応者が出て落城した。しかし1567年に三船山合戦で北条氏が敗れると、反攻に転じた里見氏によって池和田城は奪還され、再び多賀氏の居城となった。1577年に里見氏と北条氏の間で和睦が成立すると、長南武田氏は北条氏に属し、池和田城も北条方の城となった。1590年の小田原の役の頃は内藤大和守が城主であったが、浅野長政らの上方勢に攻め落とされ、以後廃城となった。
池和田城は、標高73m、比高30m程の小丘に築かれた城である。この丘陵は、住宅地裏に位置しているので、あまり思うようには遺構の探索ができない。それでも天神社の鎮座する主郭は整備され、低土塁が残っており、登り道の途中には井戸跡が残り、主郭の周りに腰曲輪が築かれているのもわかる。しかし主郭北西の二ノ郭などは未整備で冬でも藪がひどく、踏査は断念した。この他、北側の斜面に段々に平場があるが、いずれも畑になっているため、往時の遺構かどうか判断が難しい。ニノ郭の隅には櫓台らしい土壇も遠目に確認できたが、如何せん民有地なので進入できなかった。この他、縄張図では西側に横堀がある様だが、民家の裏の為これも確認できなかった。北条勢が攻めあぐねたにしては、ささやかな規模の城であり、遺構もあまり見どころがなく、少々拍子抜けした。おそらく往時は、平蔵川を天然の外堀とし、低湿地帯に囲まれた要害地で、あまり大きな普請を必要としなかったのだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.380758/140.175836/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
池和田城は、安房里見氏と小田原北条氏との間で争奪戦が繰り広げられた城である。城の創築は明確ではないが、鎌倉時代に和田太郎正治の居城であったと伝えられている。戦国時代になると長南武田氏の重臣多賀氏の居城となり、長南武田氏が里見氏の勢力下に入ると多賀氏もそれに従ったが、1564年の第二次国府台合戦で里見氏が北条氏に大敗を喫すると、勢いに乗じた北条氏に上総まで攻め込まれ、池和田城も北条氏政の大軍に囲まれた。第二次国府台合戦で討死した多賀越中守高明の子多賀蔵人・兵衛兄弟の奮戦と、要害堅固な城に北条方は攻めあぐねたが、城内に内応者が出て落城した。しかし1567年に三船山合戦で北条氏が敗れると、反攻に転じた里見氏によって池和田城は奪還され、再び多賀氏の居城となった。1577年に里見氏と北条氏の間で和睦が成立すると、長南武田氏は北条氏に属し、池和田城も北条方の城となった。1590年の小田原の役の頃は内藤大和守が城主であったが、浅野長政らの上方勢に攻め落とされ、以後廃城となった。
池和田城は、標高73m、比高30m程の小丘に築かれた城である。この丘陵は、住宅地裏に位置しているので、あまり思うようには遺構の探索ができない。それでも天神社の鎮座する主郭は整備され、低土塁が残っており、登り道の途中には井戸跡が残り、主郭の周りに腰曲輪が築かれているのもわかる。しかし主郭北西の二ノ郭などは未整備で冬でも藪がひどく、踏査は断念した。この他、北側の斜面に段々に平場があるが、いずれも畑になっているため、往時の遺構かどうか判断が難しい。ニノ郭の隅には櫓台らしい土壇も遠目に確認できたが、如何せん民有地なので進入できなかった。この他、縄張図では西側に横堀がある様だが、民家の裏の為これも確認できなかった。北条勢が攻めあぐねたにしては、ささやかな規模の城であり、遺構もあまり見どころがなく、少々拍子抜けした。おそらく往時は、平蔵川を天然の外堀とし、低湿地帯に囲まれた要害地で、あまり大きな普請を必要としなかったのだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.380758/140.175836/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城 上総長南武田氏の城郭
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