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勝見城(千葉県睦沢町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9250.JPG←垂直絶壁切岸で囲まれた曲輪
 勝見城は、上総権之介広常の弟金田小太夫頼次の居城と伝えられている。頼次は金田郷を領したことから金田氏を称し、源頼朝挙兵の時には兄広常と異なり、頼朝の旗揚げ前から三浦氏の居城衣笠城に入るなど、鎌倉幕府創業に貢献した。一方広常は大兵を擁して、房総半島に逃れた頼朝の勢力挽回に大功を挙げたことから、幕府内で専横の振る舞いが多く、1183年、頼朝の内意を受けた梶原景時によって誅殺された。広常の誅殺と共に、頼次も蟄居を命ぜられ、後に病死したと言われる。その後許された一族は旧領を回復したが、頼次の孫盛常は、1247年の宝治合戦で三浦氏に同調した理由で蟄居を命じられ、所領は同族の千葉氏に与えられた。盛常の子胤泰は、叔父に当たる千葉胤定の跡を継いで鏑木氏を称したが、8代後の常信の時に旧領に復して金田氏を称した。この時、勝見城を居城としたかどうかは定かではない。いずれにしても天文年間(1532~55年)以降は、正木氏か長南武田氏のいずれかの支城になったと推測されており、1590年の『関八州諸城覚書』(毛利家文書)によれば、戦国末期には長南武田氏の属城となっていたことが知られている。

 勝見城は、比高50m程の細尾根状の丘陵地に築かれた城である。この城では、細尾根状の狭小な曲輪群は単なる物見台か詰城に過ぎず、基本的には細尾根両側を削って山腹に築かれた広い曲輪群が主体となっている城である。従って、中心的な曲輪というものがはっきりせず、求心性のない縄張りとなっている。尾根筋には点在する物見台の間を深さ3m程の数本の堀切で分断し、城域南西端には大堀切が穿たれて、一応の区画を成している。「一応の」と言うのは、その先の尾根にも腰曲輪が廻っており、どこまで城域かがあまりはっきりしない為である。尾根側方の曲輪群は、上総式細尾根城郭の典型で、背後を垂直絶壁切岸で守られた平場で、曲輪間は基本的には小規模な段差だけで区画している。尾根東側の曲輪群には、主尾根から東に分岐した支尾根を天然の障壁とし、堀切を兼ねた切通し状虎口を設けた構造が2ヶ所確認できる。勝見城の様な縄張りは夷隅地方には多い形態であるが、中心的曲輪を防御する構造が欠落しており、普通の城の縄張りから考えれば、かなり異質な城である。
城域南西端の大堀切→IMG_9239.JPG
IMG_9278.JPG←堀切兼用の切通し虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.381912/140.325825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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