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長南城(千葉県長南町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2070.JPG←太鼓森裏の堀切
 長南城は、庁南城とも記載し、長南武田氏の居城である。長南武田氏は、真里谷武田氏と同族で、甲斐武田氏の一族武田信長が享徳の乱の際に古河公方足利成氏に味方して、上総の守護代に任ぜられたことに始まる。1456年に上総に入部した信長は真里谷城と長南城を築いて、真理谷城には嫡男信高を置き、自らは長南城に拠って上総支配の拠点とし、以後真里谷武田氏と長南武田氏が並立した。以後長南城は、5代150年に渡る長南武田氏歴代の居城となった。長南武田氏の系譜には不明点が多く、その動きも明確ではない。『鎌倉大日記』によれば、1479年に太田道灌が長南城を攻め落としたと記され、その後の戦国後期には他の房総諸豪と同様、安房里見氏と小田原北条氏との勢力の狭間で、揺れ動いていた様である。はっきりしているのは最後の当主信豊だけで、弘治年間(1555~58年)から長南武田氏滅亡の1590年まで当主であったことが知られ、戦国末期には北条氏に属し、『関八州諸城覚書』(毛利家文書)によれば勝見城池和田城を属城として抱え、1500騎の兵力を有していたとされる。1590年の小田原の役の際、7月7日に長南城は徳川四天王の一人、本多忠勝の軍勢に開城しており、この日に信豊は自刃したらしい。以後、長南城は廃城となった。

 長南城は、非常に特異な城で、細尾根の山稜で周囲を囲まれた平地を中心とした縄張りとなっている様であるが、全体としてどのような構造だったのか、今一つ明確ではない。折からの強風の影響と、酷い倒竹地獄に辟易したせいで、今回踏査したのは長久寺裏から太鼓森と呼ばれる櫓台にかけての部分だけだったが、いかにも防御思想がはっきりせず、求心性のない縄張りで、どこに城の中心があったかも明確ではない。山稜で囲まれた平地には中城・城の内・要害などの地名が残っていることから、ここが中心だったとも思えるのだが、周辺の縄張図を見る限り、ここを集中して防御しているわけでもなさそうである。遺構としては、平地は畑に変貌していて見る影もなく、周囲の細尾根に櫓台や腰曲輪、堀切などの遺構が散在している。踏査した部分に限って言えば、上総式の細尾根城郭の一つではあるが、よく見られる垂直絶壁切岸は、この城では全体にやや不明瞭である。太鼓森には妙見社の建てられた平場と櫓台があり、櫓台背後に土塁が築かれ、派生する尾根との間を堀切で分断しているのが確認できる。とにかく冬場でも藪がひどく、結局踏査したのは縄張図の1/3にも満たない。中途半端な縄張りと遺構共々、少々消化不良気味の城巡りとなった。

 尚この後、長南城関連の展示を見に長南町郷土資料館に伺ったところ、折悪しく展示品は一時撤収されてしまっていたが、代わりに教育委員会編纂の『長南城跡確認調査報告書』を無償で頂くことができた。この場を借りてお礼を申し上げます。
長久寺裏の櫓台と削り残し土塁→IMG_2032.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.399034/140.237834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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喜多村 和廣

私の先祖は武田兵部大輔豊信公家臣連名簿に記載されています斉藤左衛門知貞です、長南城没後近所のお寺が火事になり墓石までなくなり、全て消え去りましたので、1590年以前の歴史が消えておりますので、色々と?知りたいのですが、よろしくお願いいたします。
by 喜多村 和廣 (2015-07-04 07:14) 

アテンザ23Z

>喜多村さん
戦国期の歴史を伝える古文書が失われてしまったのは惜しいですね。でも長南武田氏に限らず、関東の戦国大名ではそうした例は多いです。小田原北条氏すら、わかっていない部分がまだまだ多いですから、地方の中小勢力で小田原の役以降没落したところは、古文書が失われてしまっても仕方なかったのでしょう。何か情報ありましたら、こちらこそ情報交換させて下さい。よろしくお願いします。
by アテンザ23Z (2015-07-04 13:38) 

喜多村 和廣

ご解答大変ありがとうございました1590年、長南城没落後武田豊信公の家臣斎藤左衛門知定の子孫が1704年(長南城没落後114年目に)徳川五代将軍綱吉時代に農家をしていただろうと思はれる我が先祖一明36歳が斉藤から喜多村に改名をして黒田直邦公に山奉行として仕官をし、又まもなく元締役になったとありますそして十年目にして家老につぐ禄高になったそうですが、落武者のせがれで、その上36歳の高齢の男がなぜ?このような幸運がつかめたのか不思議なのですが、唐鎌さんはどのように思はれますか?推理をして戴きたくお願いいたします。
by 喜多村 和廣 (2015-07-21 17:02) 

喜多村 和廣

大変ご無沙汰をしておりました、以前の話は中抜きでさぞ驚かれたかと思います、反省いたしました
あれ以来私1590年前について仮説をたてて考えましたので、、、、、鎌足は天皇から藤原の名前を賜りましたが死ぬ3日前でしたので次男(不比等)は父親の鎌足の時代の者は藤原を使用してはならないと発令しました、
我が家の先祖は間違いなく藤原の直系です、しかるに斉藤は藤原魚名の六代目の孫利仁の子叙用が伊勢神宮の斎宮頭に任じられ(斎宮頭の藤原)を略して斉藤と呼んだのが始めといわれたらしいです、この系統から富樫氏、後藤氏など,中世日本で活躍する武家が分出している
(尊卑分脈)によれば、斉藤氏は(疋田斉藤)(河合斉藤)に分かれたが河合斉藤の祖吉原則光の孫に右衛門尉宗景が出た。そして、宗景の孫にあたる斉藤帯刀左衛門尉親頼が始めて美濃国目代になったとみている。これが斉藤氏と美濃
とのつながりの初めで,親頼の子頼茂も目代を承継した。この頼茂の流れが美濃斉藤氏になるとゆうが、一方、疋田斉藤氏の竹田四朗基康の子基種の流れが美濃斉藤氏になったともみえる。
目代とゆうのは国司の代官のことである。そもそも平安時代には律令によって国毎に国司が任じられて、それぞれ
任国に下って政務にあたった。しかし、次第に国司は都にあって任国には目代が派遣されて実務をとるようになった。
斉藤氏は美濃国司に代って国政にあたり、美濃国に勢力を扶植していったのである。また、その実務能力によって、
室町時代になると幕府直属の家臣の(奉公衆)となり、室町幕府の実務官僚として活躍する斉藤氏も出た。
いずれにしろ、南北朝期の斉藤氏は美濃守護土岐頼康に従って武家方として行動、やがて、土岐氏の下風に立つように
なった。
土岐氏は兄弟で仲が悪く、そのすきに乗じて、道三は弟の頼芸とクーデターをおこして兄を追放して弟頼芸が美濃国
の守護大名になり、道三は美濃で力をつけて後に明智光秀の家臣になる稲葉一鉄(地侍)=(春日局の父)などを味方ににつけてまた
クーデターをおこして美濃国守護の土岐頼芸を追放してかわりに道三が美濃国守護になる。
その後頼芸は上総の万喜城の城主になりその後に里見と婚姻関係を持ち第二次国府合戦で里見に加勢をして北条に大敗をして
後に和睦をする、、、この戦で先祖の斉藤左衛門尉知貞は親類の唐鎌氏を呼び、道三のために下野をしていたので北条方について勝利をしたので長南城に入ったと考え
ました。
喜多村家の口伝は、親類どうしで敵味方に分かれたので挨拶は(いずれ戦場でお目につかまつろう)それ故に長南城
の落城後113年目に徳川幕府から声がかかったのではないかとかんがえます。
そもそも家康には秘密が沢山あり、それを隠すことに力をそそぎ全国から古文書などを回収しました、その総仕上げ
に喜多村の初代と黒田直邦公で上総、下総の古文書もお寺の焼き討ちもしたものと思われます,(長南武田連名簿)は
1851年に作成したもので豊信公の話と合わせて豊信公のお墓も作り話と考えております。










本田忠勝も藤原です、しかるに無血開城でそのうえ落城をしても近所に住んでいられたと思います。
喜多村家の口伝は、親類どうしで敵味方に分かれたので挨拶は(いずれ戦場でお目につかまつろう)それ故に長南城
の落城後113年目に喜多村初代は家康の秘密の要ですから徳川幕府から声がかかったのではないかとかんがえます。
そもそも家康には秘密が沢山あり、それを隠すことに力をそそぎ全国から古文書などを回収しました、その総仕上げ
に喜多村の初代と黒田直邦公で上総、下総の古文書もお寺の焼き討ちもしたものと思われます,(長南武田連盟簿)は

200年以上過ぎてから(1851年)に作成したもので豊信公の話と合わせて豊信公のお墓も作りものと考えております。
















by 喜多村 和廣 (2016-04-04 14:19) 

アテンザ23Z

>喜多村さん
長文のコメントありがとうございます。
歴史の欠落があると、却っていろいろと想像が膨らみますね。近年でも、各地で知られざる古文書が発見される例が時折ありますので、同じように何か新発見の古文書が見つかり、歴史の闇の一部でも照らされることになると良いですね。
by アテンザ23Z (2016-04-04 21:42) 

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