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真名城(千葉県茂原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2238.JPG←主郭の切岸
 真名城は、この地の豪族三上氏の居城である。三上氏は、南北朝時代に近江半国守護となった京極佐々木氏の一族で、足利幕府の草創期に活躍した稀代の梟雄佐々木道誉の一族が、足利尊氏から上総畔蒜庄を与えられ三上氏を称したとされる。真名城で名高いのは、戦国時代前期の1517年、三浦氏を滅ぼして相模を平定して間もない伊勢宗瑞(北条早雲)が、真里谷武田氏支援のため相模から渡海してこの城を攻め囲んだことである。この頃、真里谷武田氏は、小弓城主で千葉氏の執権であった原氏や真名城の三上氏と対立しており、伊勢宗瑞と同盟を結んでその支援を求めたのである。真名城を攻略した宗瑞は、上総二宮荘を獲得したらしく、1590年の滅亡まで小田原北条氏はその領有を主張していた。また真里谷武田氏との同盟は、宗瑞の子北条氏綱の時代にも効力を持っており、1534年の真里谷武田氏の内訌でも氏綱は求めに応じて援軍を派遣している。しかし真名城のその後の歴史は不明であるが、遺構から見る限り、戦国後期まで拡張整備が続けられたと考えられる。

 真名城は、茂原市と長柄町の境界に近い、比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭に八幡神社が置かれている為、東麓からの参道が整備されているので、登るのは容易である。基本的には連郭式の城で、主要曲輪間はほとんど堀切を使用せず、切岸だけで区画している。いずれの曲輪も削平はしっかりされており、切岸も明瞭で、かなり広範囲に普請が行われていることがわかる。主要部は、主郭とニノ郭の間に一段低い三ノ郭を挟んだ一城別郭構造で、各曲輪の周囲には腰曲輪が廻らされ、主郭の北には更に四ノ郭・五ノ郭などが連なっている。これらの曲輪が連なる尾根に沿って、側方に腰曲輪が延々と続いている。主郭の北の遺構は、竹藪などで踏査が困難な部分が多いが、なんとか踏み越えて行くと、Ⅵ郭とされる櫓台がそびえ、その周りにも腰曲輪が築かれている。そこから先は、藪でほとんど踏査不能である。一方、三ノ郭の南側の遺構は下草などが刈られ、遺構がよく確認できる。その先にニノ郭がそびえ、ニノ郭には土塁や隅櫓台が築かれている。東と南の2ヶ所の隅櫓台の先には堀切が穿たれているが、これはニノ郭外周の腰曲輪間を繋ぐ切通し虎口を兼ねている。またニノ郭の隅から派生する尾根にも要所に堀切が穿たれ、特に南西尾根には深さ5~6m程の大堀切が穿たれている。南東の尾根にも堀切があるが、地形図にある65.7mの三角点の先は圏央道が貫通し、消滅している。南半分は遺構が見易いが、北半分は見辛くちょっと整備して欲しいものである。
ニノ郭の隅櫓台→IMG_2193.JPG
IMG_2211.JPG←南西尾根の大堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.460439/140.250237/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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