SSブログ

四保城(茨城県筑西市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4244.JPG←主郭西側の空堀と土塁
 四保城は、南北朝期に常陸南朝方の四保氏の城であったとされる。1338年、新田義貞、北畠顕家の相次ぐ戦死によって弱体化した南朝勢力を再建するため、北畠親房は後醍醐天皇の皇子を奉じて伊勢より海路東国に下向した。この一行の中に四保氏の名が見られるという。途中暴風に遭って一行は散り散りとなり、親房は常陸に辿り着いた。以後、5年間に渡る親房の常陸経営が始まるが、四保氏は四保城に拠って北朝方の派遣した高師冬の軍勢に抵抗した。しかし衆寡敵せず、1341年、大宝両城との連絡を遮断されて孤立した四保城は、結局降伏したと言う。

 四保城は、小貝川東岸の河岸段丘上に築かれた城である。台地辺縁部に土塁と空堀で囲まれた方形の主郭と、その南北のニノ郭等の曲輪群で構成されていたと推測されるが、現在は宅地化が進み、遺構がかなり失われている。主郭は西側と北側の土塁・空堀がかろうじて残っているが、北側の土塁は近年の工事で削られてきており、空堀は湮滅、張り出した櫓台も側部を削られた無残な姿を晒している。このままでは、遠からず北辺部の遺構は湮滅してしまうだろう。『図説 茨城の城郭』によれば、この他にも主郭北側にニノ郭の土塁、南側の公民館付近にも土塁が残るとされるが、無傷なのは南側だけで(それも藪がひどく民家の真裏でもあり、形状不明)、北側はNPO法人の敷地となって湮滅している。これ以上の破壊を食い止める手立てはないものだろうか。
 尚、台地下の南西の平野部に四保氏の館であった村田館があり、昭和20年代の航空写真を見ると、水田中にはっきりと方形の堀跡が見られるが、現在は耕地整理で完全に痕跡が失われている。
無残に削られた櫓台→IMG_4254.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.266612/140.011665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント