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河和田城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0350.JPG←天徳寺裏の水堀
 河和田城は、江戸氏が築いた大規模な平城である。元々は南北朝初期の1337年に大掾氏の家臣鍛冶弾正貞国(河和田入道)が水戸城の支城として築いたと言われている。その後、小山義政の遺児若犬丸が立て籠もった難台山城を幕府の討伐軍が攻め落とした難台山合戦での戦功により、江戸通高の子通景にこの地が与えられ、以後、河和田城を本拠として勢力を養った。江戸氏は、上杉禅秀の乱でも鎌倉公方方として活躍し、水戸地方を与えられたが、水戸城には引き渡しを拒否した大掾氏が引き続き居座っていた。1426年、大掾満幹は「青屋祭」執行の為、一族・重臣を連れて府中に赴き、この大掾氏の水戸城不在の隙を突いて、江戸通房は水戸城を奪取することに成功した。通房は居城を水戸城に移し、家臣の春秋氏を河和田城主とした。以後、水戸城の南西の防衛拠点として重視されたと思われる。江戸氏は戦国時代を通して常陸の戦国大名佐竹氏に属する有力国人として勢威を振るったが、1590年の小田原の役の後、豊臣秀吉の権力を背景にして常陸一国の統一を推し進めた佐竹義宣によって、同年12月に水戸城が攻略されて江戸氏は没落した。この時、河和田城も廃城となった。

 河和田城は、周囲を低湿地帯に囲まれた平地に築かれた、いわゆる「掻き揚げ」の平城である。規模は非常に大きく、城域は東西350m、南北520mにも及ぶ。珍しい群郭式の縄張りで、外周を大型の堀で防御しており、特に西面は二重の堀が廻らされている。一部は河和田小学校の建設で破壊されているが、道路脇に二重堀の断面が姿を現している他、水戸市療育センターの周囲や天徳寺・報仏寺の周囲に、立派な土塁と堀が残っている。これらの掘の一部は湧水があるらしく、水堀となっている。主郭は療育センターの部分とされており、その他にも山林になっている部分に遺構が眠っているが、私有地のため進入は憚られる。昭和20年代前半の航空写真や縄張図を照合して見ると、二重の堀に横矢が掛けられた豪壮な造りの様で、さすがに小幡城を築いた江戸氏だけのことはあった様だ。しかし如何せん、進入できないために確認できない遺構が多いのが残念である。断片的に確認できる遺構からしても、中々の規模の土塁と堀なので、残存遺構が全て確認できるのならば4つ星評価もあり得るかもしれないが・・・。
報仏寺周囲の堀と土塁→IMG_0447.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.367583,140.414382&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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