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石巻城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2116.JPG←城跡の現況
 石巻城は、日和山城とも呼ばれ、奥州葛西氏の嫡流石巻葛西氏の居城である。葛西氏は、豊島清光の三男清重を祖とする、下総国葛西荘を本貫とする豪族であった。清重の事績については、葛西清重館の項に記載する。清重に対する源頼朝の信頼は厚く、殊に奥州合戦での軍功を高く評価され、陸奥国御家人の惣奉行を命じられ、胆沢・磐井・牡鹿・江刺・気仙の五郡と興田・黄海の二保という広大な所領を拝領した。葛西氏の系図は、近世に没落した戦国大名に多く見られる通り不明点が多いが、一関博物館監修の『葛西氏の興亡』によれば、大略以下のようになる。奥州藤原氏滅亡以後、平泉は幕府直轄的な扱いを受けて、葛西氏が平泉に屋敷を構えて諸務を取り仕切ったが、鎌倉御家人である葛西氏は常住せず、代官が赴任していた。一方、五郡二保の広大な所領は、葛西氏惣領家が取り仕切る建前ながら、実際には一族の多くに譲与されて、分割知行されたらしく、多くの庶家に分かれて五郡二保の各所に割拠した。葛西惣領家がいつ奥州に下向したかは定かではないが、4代宗清・5代清貞の頃と考えられている。1333年、倒幕に挙兵した新田義貞の元に、多くの御家人が参陣し、葛西氏もその中にいた。倒幕に成功した後醍醐天皇が建武の新政を始めると、北畠顕家を陸奥守・鎮守府将軍として陸奥国府多賀城に下向させ、東北の武家を統括させた。この顕家の下で奥州南朝方の柱石として活躍した武将の中に、白河結城宗広・伊達行朝と並んで葛西清貞がいた。この頃、清貞は多賀城に程近い石巻に石巻城を築いて居城としたと考えられる。葛西一族も決して一枚岩ではなく、北朝方に付いた一族もあったが、葛西氏の大方は南朝として活動し、顕家が畿内で討死し、その後代わって奥州に下向した北畠顕信も北朝に敗れて北へ敗走すると、葛西氏も程なく北朝方に帰順したと考えられている。その後、室町時代を通して五郡二保には葛西氏の支配が続くが、有力家臣団の統制は盤石ではなく、家臣団が度々独自の行動を取ったり、互いに反目して合戦に及ぶことがあった。1511~12年、葛西氏12代宗清(実は伊達成宗の子)は山内首藤氏の桃生郡・登米氏の登米郡を平定し、いつの頃からか石巻城から登米寺池城(保呂羽楯)に本拠を移した。石巻城はこの時に廃城となったと推測される。葛西氏はその後、15代晴胤の時に伊達氏の内乱「天文の乱」に巻き込まれ、これ以後葛西領では有力家臣の勢力増大によって内乱が頻発した。16代晴信の時には、隣接する大崎氏との戦いも激しくなり、領国経営に苦心した。1590年の小田原の役では、晴信は領内の争乱などへの対処から参陣できず、その後の豊臣秀吉による奥州仕置で改易され、所領を没収されて葛西氏は没落した。同年10月、新領主となった秀吉の家臣木村伊勢守吉清・清久父子の暴政により、葛西・大崎旧臣による葛西・大崎一揆が発生したが、翌年伊達政宗によって一揆勢は殲滅され、葛西氏再興の道は絶たれた。

 石巻城は、旧北上川の河口近くにそびえる比高50m程の段丘上に位置している。城域は全て改変されており、明確な遺構は確認できない。最高所の鹿島御児神社が建っているのが主郭であろうか。その南側は日和山公園となっているが、僅かに腰曲輪らしい段が見られるが、改変が進み遺構かどうかはわからない。そもそも石巻城の存在そのものが、昭和58年の発掘調査が行われるまでは伝承だけの存在で、発掘調査で初めて中世城館の跡として確認された程なので、表面上の遺構には全く期待できない。
 尚、日和山の南面の眼下は一面の津波被災地で、震災から5年近く経った今でもその爪痕が生々しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.423739,141.308255&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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