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利府城(宮城県利府町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2192.JPG←主郭の現況
 利府城は、元の名を村岡城と言い、岩切城主留守氏の有力支族村岡氏の居城である。留守氏は室町時代には大崎・伊達両氏に挟まれて、家中は両派に分裂して抗争を繰り返した。最後は伊達派が勝利を収め、伊達氏に属してその入嗣も受け入れるようになった。しかし村岡氏は親大崎派の頭目であり、伊達晴宗の3男政景の入嗣の際は、村岡兵衛・余目伊勢・佐藤六郎佐衛門らが強く抵抗し、特に村岡兵衛の反抗が最も激しく、結局政景は1569年12月から翌年にかけて村岡城に立て籠もった村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。そして村岡氏滅亡からまもなくの元亀年間(1570~73年)に、政景は居城を岩切城から村岡城に移し、城名を利府城に改めた。留守政景は、伊達氏当主となった若き政宗を補佐し、度々の合戦で活躍し、政宗の信頼が厚かった。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で政景は所領を没収されて黒川郡大谷城に移り、利府城は廃城となった。その後留守氏は、伊達氏の家臣と見做されて政宗の下で活動し、後に伊達一門に列せられて、その子孫は水沢伊達氏となって幕末まで存続した。

 利府城は、利府小学校の裏にそびえる比高70mの山稜上に築かれている。現在主要部は館山公園として整備されている。『日本城郭大系』の記述によれば、山上の3つのピークにそれぞれ、北東郭・中央郭・南西郭が設けられ、それぞれが腰曲輪群で囲繞されて独立した曲輪群として機能していたらしい。中央郭が主郭とされ、城址碑が建っている。城内は全体に公園化に伴うと思われる改変がひどく、腰曲輪以外の遺構はほとんどわからない。また主郭などは広いことは広いが削平が甘く、伊達氏の有力家臣の居城として戦国末期まで存続した城とはとても思えないレベルである。北東郭は公園外で未整備のため、未踏査であるが、中央郭(主郭)との間には堀切跡と思われる窪地が確認できる。利府城は、留守政景の居城であり期待して行ったのだが、公園化失敗の典型例で、各部の標柱もなく縄張りもはっきりしない。あまり市民の愛着を感じない、残念な城である。
北東郭との間の堀切らしい窪地→IMG_2185.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.335799,140.981069&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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