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檜沢城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6377.JPG←帯曲輪から見た二重堀切
 檜沢城は、普通には下檜沢楯(館)と呼ばれる城である。城の歴史は一切不詳であるが、佐竹義篤の1539年(天正8年)4月25日付の書状(大縄久照文書)に、

 烏山へ以切紙申届候、其口之者被申付、為飛脚彼一書今晩烏山へ可被相届候、然者廿九日ニ番衆可指越候、先初番ニハ野口・東野・高部・小舟之者共可遣候、(中略)又次番者小瀬・桧沢の可為衆候、自只今催作〔促〕尤候、何も悉可遣候、高部・小舟之者一向ふせうの者とも迄、不残可被申付候(以下略)

【書き下し文】
 烏山へ切紙を以って申届け候。其の口の者に申し付けられ、飛脚を為して彼の一書を今晩烏山へ相届けらるべく候。然る者二十九日に番衆として指越すべく候。先ず初番には野口・東野・高部・小舟の者共を遣はすべく候。(中略)又次番の者には小瀬・桧沢の衆と為すべく候。只今より催促尤もに候。何も悉く遣はすべく候。高部・小舟の者は一向ふしょう(負傷?)の者ども迄、残さず申付けらるべく候。(以下略)

とある。これは那須領烏山口への動員令であり、この中に記された番衆の地名(野口東野高部小舟小瀬・桧沢)が、佐竹領西方の軍事拠点であったと解されている。城巡りの先達である「Pの遺跡侵攻記」や「余湖くんのホームページ」では、ここに記された「桧沢」が正に檜沢城のことであろうと推測している。

 檜沢城は、下檜沢宿の緒川西岸の丘陵上の比高10~90mの範囲に築かれている。荒蒔城などと同様、最高所から裾野に広がる緩斜面上に延々と曲輪群を連ねた構造となっている。城域は大きく2つに分かれ、山上の南北に連なる尾根上に築かれた主城部と、そこから東に伸びた広やかな緩斜面に築かれた段々状の曲輪群で構成されている。まず主城部は、北の最高所に主郭を置き、段差だけで区切られたニノ郭・三ノ郭が南に連なっている。また東麓から主郭へ登る手前に四ノ郭が築かれ、虎口の防衛を図っている。主郭の北辺には土塁が築かれ、主郭の北西部は一段高くなり小さな主殿が置かれた平場であったようだ。その背後に櫓台が築かれ、裏の尾根には二重堀切が穿たれている。二重堀切の南側に落ちる竪堀は、そのまま主城部外周を廻る帯曲輪に繋がっており、この帯曲輪は段差で分かれ、段差部には横矢の掛けられた虎口が築かれている。また帯曲輪は数ヶ所で竪堀によって狭められている。南に伸びる尾根には横堀状の腰曲輪と虎口が築かれ、土橋状の細尾根の先端に物見台がある。一方、主郭の北側斜面と四ノ郭の北側には堀切で分断された土壇が築かれて防御を固めている。これらの主城部と東の曲輪群との間は2本の堀切で分断され、これらの堀切は前述の四ノ郭北側の堀切から接続している帯曲輪と繋がっている。特に内側の堀切は、帯曲輪からの登城道を兼ねている。この帯曲輪の先は竪堀状の城道となって北斜面を下っている。東曲輪群は最高所の曲輪後部に高い物見台が築かれ、主城部前面を護る曲輪群の指揮所として機能したことが伺われる。曲輪群は段差だけで区切られているが、それぞれの虎口は上段の曲輪の塁線から横矢が掛けられている。これらの曲輪群の北側斜面にも帯曲輪が伸びており、所々に土塁が築かれている。
 以上の様に檜沢城は、軍団の駐屯地としての機能と有事の際の詰城機能を併せ持った、拠点防衛の城だったものと思われる。そのため、城の名前も余湖さんの見解を取り入れて、下檜沢楯ではなく檜沢城とした。
東曲輪群の帯曲輪→IMG_6289.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.648072/140.334420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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P

こんばんは。

遅くなってしまいました。

こちらのブログにご訪問頂き、ありがとうございました。

茨城にもまだまだ良い遺構が残る場所がたくさんありますので、またいらっしゃってください。
そのときに、こちらの記事がちょっとでも参考になれば幸いです。

by P (2016-06-05 23:17) 

アテンザ23Z

>Pさん
こちらこそ、ご訪問頂きありがとうございます。
ちょっとどころか、茨城の城歩きではPさんの記事が大変参考になっております。今後とも宜しくお願いします。
by アテンザ23Z (2016-06-06 21:56) 

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