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若槻山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3250.JPG←主郭前面に連なる曲輪群
 若槻山城は、平地の平城(若槻里城)と一体となった山城(詰城)で、八幡太郎源義家の孫若槻頼隆が鎌倉時代初期にこの地に入部し、若槻氏を称して山城・平城を築いたと言われている。室町時代になると若槻氏は高梨氏に属し、1392年には若槻本庄が高梨氏一族の知行地となっており、若槻山城は高梨氏の要害になっていたと考えられる。大塔合戦の後の1404年には、信濃守護代細川慈忠の入国に高梨氏と共に抵抗し、若槻城は幕府方の市川氏幸らに攻められて落城した。戦国時代に入り、善光寺平が武田信玄・上杉謙信の抗争の場となると、若槻山城は上杉方によって整備されたと推測され、1564年に川中島の戦いが終結するまで、甲越両軍による争奪戦が繰り返された。

 若槻山城は、三登山支峰の標高675mの城の峰に築かれている。城のすぐ下まで車道が来ており、登山道も整備されているので訪城は容易である。多数の段曲輪群で構成された城で、土塁で囲まれた山頂の主郭の前面に5~6段の主要な曲輪群を配し、堀切を挟んでその前面に小規模な段曲輪群を連ねている。前述の主要な曲輪の側方には竪土塁を築いて、上下の曲輪間の導線を確保すると共に側方からの侵入に対する防御を固めている。主郭前面の虎口は2ヶ所にあり、一つは二ノ郭から虎口小郭を経由して登る東ルート、もう一つは竪土塁を伝って虎口小郭を経由する変則的な枡形虎口の南ルートである。南の虎口の脇には腰曲輪まで分断する竪堀が穿たれている。主郭の背後は二重堀切で尾根を分断しているが、2本目は浅いものである。更に後部を防衛する外郭があって、その背後も堀切で防御している。これらの背後の尾根筋に穿たれた堀切はいずれも長い竪堀となって落ちている。その他にも小規模な竪堀が数ヶ所見受けられる。遺構はよく残っており、長野の山らしくきれいに整備されているので美しい城だが、技巧性にはやや乏しい。しかし城域はそこそこの広さがあり、善光寺平争奪戦の中で重要な役割を担った城であることは伺える。
主郭背後の堀切→IMG_3154.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.697638/138.213308/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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