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馬坂城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4680.JPG←三ノ郭の横堀
 馬坂城は、佐竹氏の初期の居城である。元々は、秀郷流藤原氏系の天神林刑部丞正恒の居城であったと言われるが、1131年に新羅三郎源義光の孫昌義が京より常陸国佐竹郷に下向し、1133年に天神林氏から馬坂城を奪って居城とし、佐竹氏を称したと伝えられている。その後、3代隆義は居城を太田城に移し、4代秀義の子義清が稲木氏を称して馬坂城を居城とした。 以後、稲木氏の歴代の居城として続いたが、1417年、8代義信の時、山入の乱で山入氏方に付いて滅亡した。その後、佐竹氏14代佐竹義俊の子義成が天神林氏を称して馬坂城を居城としたが、義成・義益父子も山入氏義に与して「山入一揆」に加担した。氏義が太田城を奪って居城としていた時には、義益は山入氏の本拠山入城を守った。しかし、佐竹義舜の反撃で山入氏が滅亡すると、天神林氏も運命を共にした。その後の馬坂城の歴史は不明である。

 馬坂城は、標高45mの丘陵先端部に築かれている。主郭と、西城と呼ばれる二ノ郭、更にその先の三ノ郭、主郭背後(東側)の外郭から構成されている。いずれの曲輪も堀切で分断されているが、主郭は畑に変貌し、外郭は民家が建ち並んでいて改変が激しい。しかし主郭の北側や西側の藪に突入すると、そこには突然中世城郭の世界が現れる。二ノ郭には源氏塚と呼ばれる大きな物見台があるが、これは古墳であろう。また主郭や二ノ郭の周りには腰曲輪が廻らされ、派生する尾根には堀切が穿たれている。また二ノ郭背後には堀切で区画された小郭も築かれている。また先端の三ノ郭の周囲には横堀が穿たれている。二ノ郭は一部が畑になっているが、三ノ郭は完全に薮に埋もれている。全体にあまりパッとしない遺構で、比較的古い形態を残していると考えられ、戦国後期にはほとんど活用されていなかったのではないかと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.523691/140.499172/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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