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麻績古城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4792.JPG←主郭背後の大堀切
 麻績古城は、虚空蔵山城とも呼ばれ、この地の地頭服部氏の居城であったと言われている。『市河文書』によれば、南北朝期の1335年に生起した中先代の乱が足利尊氏によって鎮圧された後、翌年2月に府中の在庁官人の深志介知光が、北条泰家(時興とも。最後の得宗北条高時の弟)に味方して挙兵し、足利方の信濃守護小笠原貞宗、村上信貞らと麻績十日市場・麻績御厨で戦っているが、この時拠点としたのがこの城のことであろうと推測されている様である(『日本城郭大系』)。ちなみにこの時期は、既に第1回目の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州へ落ち延びる時に当たり、国内の政治情勢が極めて複雑・流動的であったことを物語る。その後の城の歴史ははっきりしないが、戦国期には武田氏・小笠原氏・上杉氏の争奪の場となっているが、それが麻績城のことなのか、麻績古城のことなのか、はっきりしない。

 麻績古城は、法善寺背後の標高780m、比高145mのピーク上に築かれている。背後の山稜には麻績城がそびえている。基本的には主郭・二ノ郭2つの曲輪で構成されており、主郭の南東・南西と二ノ郭の東に伸びる支尾根に段曲輪群を築いた、比較的簡素な構造となっている。特筆すべきは石垣と堀切で、まず主郭の虎口付近と南西の切岸に小規模だが石垣が築かれている。腰曲輪の一部にも石が散乱しているので、もっと石垣は多かったのだろう。堀切は、長野の山城らしく規模が大きいもので、主郭背後のものは特に切岸が高くそびえており、雄大である。二ノ郭背後には変則的な二重堀切があり、中間土塁は東側にだけ築かれている。その下方は平場となっている。この他、二ノ郭側方には帯曲輪が築かれ、主郭堀切の堀底と繋がっている。主郭には比較的規模の大きな土塁が背面に築かれている。決して規模の大きな城ではないが、大堀切や石垣などを考えると武田氏あたりによる戦国期の改修が推測されることから、新城とされる麻績城よりもこの麻績古城の方が戦国期には本城として使用されたことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.463643/138.044565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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