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三分一所楯(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3058.JPG←大手郭の土橋と堀切
 三分一所楯(三分一所館)は、浅井楯とも呼ばれ、桃生の豪族長江氏の庶流、三分一所氏の居城である。長江氏の祖長江太郎義景は、源頼朝の奥州合戦の軍功により、桃生郡深谷荘を賜った。その子孫、小野城主長江勝景(月鑑斎)は、深谷荘を三分して次弟景重を矢本に、末弟家景を野蒜に入部させ、家景は三分一所氏を称し、三分一所左衛門家景と名乗った(家景以前より、長江氏の庶家として三分一所氏があったらしいが系譜は不明)。この家景が居城としたのが三分一所楯である。月鑑斎は老練な勇将であったが、伊達政宗に背いて1591年に秋保の豊後館で誅殺された。一方。弟の家景は兄と袂を分かち、伊達氏に忠節を誓ったため、旧領の内600石を賜り、伊達氏の家臣として存続した。また家景は、馬術の相当な名人であったらしく、荒馬乗りの名手として豊臣秀吉に招かれて伏見に上り、妙技を披露して喝采を浴びたこともあったと伝えられている。その子孫からは、仙台藩で儒者として活躍した三分一所景明を輩出した。

 三分一所楯は、吉田川西岸の標高50mの丘陵上に築かれている。『宮城県遺跡地図』では丘陵先端の小さな部分のみを城域として表示しているが、実際にはその倍以上の広さがあり、中々に規模の大きな城である。西の最上部に主郭を置き、東の尾根に二ノ郭・三ノ郭を連ね、周囲に腰曲輪を廻らし、二ノ郭南に伸びる支尾根には大手郭群を築かれている。以前は東麓の公民館裏から登れたようだが、現在は斜面崩落で途絶しているので、北東の谷戸から直登した。全体に藪がひどく、遺構の確認が困難であるが、何とか東端の三ノ郭から主郭まで辿ることができた。三ノ郭と二ノ郭は段差のみで区画されているが、主郭は虎口に堀切があり、背後にも土橋の架かった堀切が穿たれている。一方、二ノ郭から南に伸びる尾根は大手であったらしく、大手郭群が築かれている。数段の平場が見られ、二ノ郭に至る部分に土橋の架かった堀切が穿たれている。確認できたのはここまでで、あまりに藪がひどくて辟易し、途中で下山したため、西側の城域がどこまで広がっているかは確認できていない。余程の好事家でなければ、訪城しない方が良いだろう。
 尚、定林寺に三分一所氏の墓があり、また城址東麓に三分一所氏の家臣浅井三郎に由来するという「しき石」が祀られている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.398636/141.143804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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