小野城(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]
←桜ヶ森楯の主郭
小野城は、桃生の豪族長江氏の居城である。長江氏は、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の後裔と言われ、景政の孫長江太郎義景は、源頼朝の奥州合戦の軍功により、桃生郡深谷荘を賜った。以後、この地は深谷長江氏の本拠となり、小野城は戦国末期までその居城となった。長江氏は室町時代前期には大崎氏に従っていたが、伊達氏の勢力が北上してくると、伊達氏に従属した。長江氏最後の当主は長江播磨守勝景(月鑑斎)で、深谷荘を三分して次弟景重を矢本に入部させ矢本氏となり、末弟家景を野蒜に入部させ三分一所氏となった。元亀年間(1570~73年)には、勝景と矢本景重の間に合戦が起こり景重は討たれて滅亡した。1588年に伊達政宗が大崎氏の内紛に武力介入した大崎合戦が起こると、長江月鑑斎は泉田重光と共に出陣したが、大雪で大敗し、命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月鑑斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立した。その後、重光・月鑑斎らは志田郡の蟻ヶ袋城に幽閉され、その間に月鑑斎は最上義光からの誘降に乗り、伊達氏から離反した。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、長江月鑑斎と鶴楯城主黒川月舟斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえて秋保氏の元に預けた。月鑑斎は秋保定重の豊後館に幽閉された後、政宗の命で定重・頼重父子によってこの館で誅殺され、長江氏は滅亡した。
小野城は、3つの城域から成る複合城郭である。本城である桜ヶ森楯(桜ヶ森館)を中心に、南に梅ヶ森楯(梅ヶ森館)、北西に松ヶ森楯(松ヶ森館)を配置している。桜ヶ森楯は比高30m程の丘陵に築かれており、大きく北郭群と南郭群に分かれているが、北郭群は時間の関係で未確認である。南郭群は多くが畑化されている他は藪で、頂部の主郭に城址標柱が建っているほか、段々の平場が確認できる。しかしこれらには、後世の耕地化による改変の可能性もあるだろう。
梅ヶ森楯は、東西に長い丘陵上に曲輪を連ねた連郭式の城砦で、一番東の円丘に主郭、そこから西に向かって二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭と並んでいる。一部がお館山公園となっているが、かなりの部分が薮で、特に三ノ郭・四ノ郭は薮で進入不能である。二ノ郭は細長い曲輪で、二ノ郭~三ノ郭間の堀切までは確認できる。三ノ郭~四ノ郭間の堀切は、確認していないが、1/25000地形図でも現れているほどなので、大きな堀切なのだろうと推測される。
松ヶ森楯は、比高20m程の丘陵先端に築かれており、主郭は耕作放棄地、腰曲輪は薮で、これも遺構の確認が困難である。しかし何とか、土塁や主郭虎口が確認できた。
いずれもほとんど山林の整備がされておらず、残念な状態の城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【桜ヶ森楯】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.410710/141.152666/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
【梅ヶ森楯】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.408776/141.154125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
【松ヶ森楯】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.414274/141.148953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
小野城は、桃生の豪族長江氏の居城である。長江氏は、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の後裔と言われ、景政の孫長江太郎義景は、源頼朝の奥州合戦の軍功により、桃生郡深谷荘を賜った。以後、この地は深谷長江氏の本拠となり、小野城は戦国末期までその居城となった。長江氏は室町時代前期には大崎氏に従っていたが、伊達氏の勢力が北上してくると、伊達氏に従属した。長江氏最後の当主は長江播磨守勝景(月鑑斎)で、深谷荘を三分して次弟景重を矢本に入部させ矢本氏となり、末弟家景を野蒜に入部させ三分一所氏となった。元亀年間(1570~73年)には、勝景と矢本景重の間に合戦が起こり景重は討たれて滅亡した。1588年に伊達政宗が大崎氏の内紛に武力介入した大崎合戦が起こると、長江月鑑斎は泉田重光と共に出陣したが、大雪で大敗し、命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月鑑斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立した。その後、重光・月鑑斎らは志田郡の蟻ヶ袋城に幽閉され、その間に月鑑斎は最上義光からの誘降に乗り、伊達氏から離反した。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、長江月鑑斎と鶴楯城主黒川月舟斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえて秋保氏の元に預けた。月鑑斎は秋保定重の豊後館に幽閉された後、政宗の命で定重・頼重父子によってこの館で誅殺され、長江氏は滅亡した。
小野城は、3つの城域から成る複合城郭である。本城である桜ヶ森楯(桜ヶ森館)を中心に、南に梅ヶ森楯(梅ヶ森館)、北西に松ヶ森楯(松ヶ森館)を配置している。桜ヶ森楯は比高30m程の丘陵に築かれており、大きく北郭群と南郭群に分かれているが、北郭群は時間の関係で未確認である。南郭群は多くが畑化されている他は藪で、頂部の主郭に城址標柱が建っているほか、段々の平場が確認できる。しかしこれらには、後世の耕地化による改変の可能性もあるだろう。
梅ヶ森楯は、東西に長い丘陵上に曲輪を連ねた連郭式の城砦で、一番東の円丘に主郭、そこから西に向かって二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭と並んでいる。一部がお館山公園となっているが、かなりの部分が薮で、特に三ノ郭・四ノ郭は薮で進入不能である。二ノ郭は細長い曲輪で、二ノ郭~三ノ郭間の堀切までは確認できる。三ノ郭~四ノ郭間の堀切は、確認していないが、1/25000地形図でも現れているほどなので、大きな堀切なのだろうと推測される。
松ヶ森楯は、比高20m程の丘陵先端に築かれており、主郭は耕作放棄地、腰曲輪は薮で、これも遺構の確認が困難である。しかし何とか、土塁や主郭虎口が確認できた。
いずれもほとんど山林の整備がされておらず、残念な状態の城である。
梅ヶ森楯の堀切→
←松ヶ森楯の腰曲輪と主郭切岸お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【桜ヶ森楯】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.410710/141.152666/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
【梅ヶ森楯】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.408776/141.154125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
【松ヶ森楯】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.414274/141.148953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
史料仙台領内古城・館〈第3巻〉宮城県西部及び中央部 (1973年)
- 作者: 紫桃 正隆
- 出版社/メーカー: 宝文堂出版販売
- 発売日: 1973
- メディア: -
タグ:中世平山城
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