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打出浜古戦場〔大楠公戦跡碑〕(兵庫県芦屋市) [その他の史跡巡り]

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 打出浜古戦場は、南北朝時代の古戦場である。普通、打出浜合戦と言えば観応の擾乱の際に足利直義の軍勢と戦って足利尊氏・高師直が敗れた合戦を指すが、それ以前にもあり、合わせて前後2回の合戦が行われている。

 最初の合戦は、1336年。竹之下合戦で新田義貞率いる朝廷軍を打ち破り、西上した足利軍は、第1回目の京都争奪戦に敗れ、逃れた尊氏は丹波経由で兵庫津に陣を移した。ここで、態勢を立て直して反攻を期す足利軍と、追撃してきた新田義貞・北畠顕家・楠木正成らの朝廷軍とが再度激突した。その戦いの経緯は『太平記』と『梅松論』とで記述が異なっているが、いずれにしても旗色の悪かった足利勢は敗れて西へ指して引き退き、室泊の軍議を経て九州へと落ち延びることとなった。

 2度目が有名な観応の擾乱での戦いである。1350年、将軍足利尊氏と執事高師直は、西国で猛威を振るい始めていた足利直義(恵源)の養子直冬(実は尊氏の庶子)を討伐するため、軍勢を率いて西に向かった。この隙を突いて、政務を辞し出家に追い込まれていた直義(恵源)は京都を脱出して河内石川城に入って、師直打倒の兵を挙げた。驚いた尊氏は備前国福岡より軍を引き返し、石見三隅城を攻撃していた高師泰の軍勢も急遽引き返させて、播磨の書写坂本で合流した。1351年2月、尊氏・師直方と直義方の両軍は摂津打出浜で激突した。戦意旺盛な直義方が尊氏・師直勢を圧倒し、尊氏の親衛隊長とも言うべき師直・師泰兄弟が負傷して戦意を喪失して、尊氏方が敗北した。『太平記』によれば、この時尊氏を始め高一族など主要な武将たちは自刃を覚悟したが、尊氏の小姓饗庭命鶴丸の奔走で師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦が成り、尊氏以下の諸将は上洛の途に付いた。しかし先年、師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。

 尚、南北朝時代には街道の要衝で度々合戦が行われた為、打出浜に限らず、同じ要地で何度も干戈が交えられた。

 打出浜古戦場は、現在国道2号線北側に楠公園があり、そこに大楠公戦跡と刻まれた立派な石碑が建っている。これもまた全国によくある南朝方礼賛の石碑と解説板で、皇国史観全盛で日本が右傾化していた昭和11年(2・26事件のあった年)に建てられている。その為、楠木正成の事績のみを大々的に記し、「逆賊」足利氏の内訌については何ら記載するところがない。また朝廷軍と足利軍の戦いについても、主将は新田義貞であったので、本来は「新田義貞戦跡」と書かれるべきであろう。この辺りが、皇国史観の「虚偽観念」という史実無視の発想らしい。尚、歴史的には観応の擾乱での合戦の方が重要であり、現代ならばそれについての補足説明を加えても良いと思うのであるが・・・。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.734921/135.317810/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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