行沢城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]
←堀切と二ノ郭
行沢城は、高田小次郎の家臣田村山城守が城主であったと伝えられる城である。田村氏の事績は不明であるが、東方の諸戸川対岸の段丘上に田村氏館とされる古立の館があり、高田氏の下で付近の城砦群と連携して街道筋を守っていたと考えられている。
行沢城は、行沢地区背後の比高わずか20m程の丘陵先端部に築かれている。大きく4つ程の曲輪を一直線に並べた連郭式の城で、東端の四ノ郭に配水所が建てられているので、配水所に登る北側斜面の階段から城内に入れる。四ノ郭は前述の通り配水所建設で改変されているが、その上の三ノ郭からは無傷で残っている。三ノ郭は馬蹄形の曲輪で、背後に主郭の切岸がそびえている。主郭は広いが、南が一段低くなっていて、2段で構成されている。主郭の背後には土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれている。堀切の西には方形の二ノ郭があり、二ノ郭の裏にも堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭から二ノ郭にかけての北側には武者走りが通っており、2本の堀切などを繋いでいる。全体に遺構はよく残っているが、主郭の周囲や南斜面は冬でも薮が多くて、ほとんど遺構が確認できない。縄張り的に平凡で、素朴な形態の城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292091/138.784533/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
行沢城は、高田小次郎の家臣田村山城守が城主であったと伝えられる城である。田村氏の事績は不明であるが、東方の諸戸川対岸の段丘上に田村氏館とされる古立の館があり、高田氏の下で付近の城砦群と連携して街道筋を守っていたと考えられている。
行沢城は、行沢地区背後の比高わずか20m程の丘陵先端部に築かれている。大きく4つ程の曲輪を一直線に並べた連郭式の城で、東端の四ノ郭に配水所が建てられているので、配水所に登る北側斜面の階段から城内に入れる。四ノ郭は前述の通り配水所建設で改変されているが、その上の三ノ郭からは無傷で残っている。三ノ郭は馬蹄形の曲輪で、背後に主郭の切岸がそびえている。主郭は広いが、南が一段低くなっていて、2段で構成されている。主郭の背後には土塁が築かれ、その裏に堀切が穿たれている。堀切の西には方形の二ノ郭があり、二ノ郭の裏にも堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭から二ノ郭にかけての北側には武者走りが通っており、2本の堀切などを繋いでいる。全体に遺構はよく残っているが、主郭の周囲や南斜面は冬でも薮が多くて、ほとんど遺構が確認できない。縄張り的に平凡で、素朴な形態の城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292091/138.784533/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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