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舟岡山城(石川県白山市) [古城めぐり(石川)]

IMG_3454.JPG←本丸南斜面の石垣
 舟岡山城は、剣城、白山城とも呼ばれ、一向一揆の城を織田勢力が改修した城である。長享年間(1487~89年)に一向一揆の将であった坪坂平九郎が居城し、その後若林長門がこの城に拠ったと言われる。1573年に織田信長が越前朝倉氏を滅ぼすと、加賀一向一揆は直接織田勢の攻撃に晒されることになった。この頃から加賀の要所要所に一向一揆勢により城砦が整備されたと言われ、舟岡山城もこの頃に金沢御堂の指導の下に修築されたと推測されている。1580年、金沢御堂の陥落後も鈴木出羽守に率いられた一向一揆山内衆は、鳥越城を本拠にして織田勢に徹底抗戦を続けていたが、晩秋の織田勢による大規模な加賀一向一揆平定作戦によって一揆勢の拠点は次々に奪われ、舟岡山城も信長の部将佐久間盛政によって攻略された。1583年、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に付いた丹羽長秀は、柴田勝家滅亡後に越前と加賀2郡を与えられ、丹羽氏の家臣早谷五左衛門が舟岡山城に在城した。1585年に長秀が没し、加賀2郡が金沢城主前田利家の所領となると、その家臣高畠石見守が城将として配置されたと言う。

 舟岡山城は、船岡山と呼ばれる大きな独立丘陵全体を城砦化した城である。この丘陵の南側は東西に細長い高台になっており、ここに城の中枢部が構築されている。高台の中央やや東寄りに本丸を置き、東西に堀切を穿ち、東に土橋で連結した二ノ丸と、その北に土塁で区画された三ノ丸を置いている。本丸の西には東と同様に土橋で連結したⅤ郭を置き、その西に細長いⅥ郭を配置している。主郭は南辺以外の三方に土塁を築き、北西には隅櫓台、東西の虎口には櫓門跡らしき土塁・櫓台を築いている。三ノ丸の南東の虎口から二ノ丸・三ノ丸の仕切り土塁の虎口を抜け、主郭への土橋に繋がるルートはすべて屈曲して設定されている。二ノ丸の南端には堀切と小郭が築かれている。Ⅴ郭は北側に横堀が穿たれ、南には桝形虎口が築かれてⅥ郭へと通じている。Ⅵ郭の西端には腰曲輪が数段築かれて、北に広がる外郭へと城道が通じている。本丸と三ノ丸の北側には土塁と空堀で囲まれた広いⅣ郭があり、土塁・空堀の屈曲部に北虎口の土橋を架け、Ⅳ郭南西端には主郭切岸や土塁・空堀で囲まれた枡形空間を伴った虎口が築かれ、ここも北に向けて土橋が架かっている。Ⅳ郭の北西はだだっ広いだけの外郭が広がっている。この城で素晴らしいのは、随所に石垣が見られることで、本丸では外周や虎口櫓台に石垣が見られ、特に南斜面の石垣は石も大きく、角部には算木積みまで見られる。二ノ丸・三ノ丸・Ⅴ郭にも石垣が随所に見られる。土塁も空堀もいずれも規模が大きく、桝形虎口も多用され、完全に近世城郭の作りである。中世城郭のつもりで行ったが、実際は天正年間(1573~92年)頃に大改修を受けた近世城郭であった。少々薮が多いが、予想外の好城郭で素晴らしい。鷹巣城とよく似た構造も多く、舟岡山城も織田氏勢力の築城法の典型と考えて良さそうだ。
本丸の西虎口と土橋→IMG_3561.JPG
IMG_3403.JPG←三ノ丸南東の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.439117/136.634216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:近世平山城
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