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荒山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4802.JPG←城域西端の横堀
 荒山城は、加越国境城砦群の一である。天正年間(1573~92年)に越中を領した富山城主佐々成政が、加賀・能登を領した前田利家に対抗するために築いた城と考えられている。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。荒山城は二俣越(二俣道)を押さえ、前田方の高峠城と対峙する城として築かれたと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。

 荒山城は、医王ダム北方の標高260mの東西に細長い丘陵上に築かれている。加越国境城砦群は、いずれも街道を取り込む形で築かれているが、荒山城も城のすぐ北側を二俣道が貫通しており、それを見下ろす様に築城されている。また街道を西から東進して来る敵勢を食い止めることを主眼として築かれている為、城域の西端に横堀・切岸・土塁による防御線を築き、切り通し状になった街道に対して両翼から迎撃できる様に、街道両側に腰曲輪群が築かれ、特に主城域である南側は腰曲輪群が幾重にも構築され、北西部には櫓台らしい土壇や竪土塁も確認できる。この街道南側の腰曲輪群には、数ヶ所に竪堀状の切れ込みがあるが、囮虎口であったか、或いは本物の虎口として機能していたか、どちらかではなかろうか。これら腰曲輪群の南東の頂部に主郭がある。主郭は櫓台と土塁を備え、北側に腰曲輪状の二ノ郭を置いている。また主郭の前後には堀切を穿ち、土橋で連結した馬出しが各々設けられている。東馬出しの先には細い尾根上を堀切で分断した曲輪群が続き、中規模の二重堀切も設けられている。敵に対して後方に当たることから、万一敵に背後に回り込まれても、主郭に容易に近づけない様にしたものだろう。城域東端には高圧鉄塔が建っているが、その東にも小堀切が見られるので、鉄塔建設の際に曲輪が削られたらしい。
 荒山城は、外郭まで遺構が良く残っており、季節を選べば比較的薮も少ない。城へのアクセスが容易なのもありがたい。
二重堀切の内堀と中間土塁→IMG_4696.JPG
IMG_4735.JPG←東馬出しから見た土橋・堀切
竪堀状の切れ込み→IMG_4826.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.564599/136.781008/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

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