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高峠城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4942.JPG←南尾根曲輪群の堀切
 高峠城は、加越国境城砦群の一である。元々は、越中川上の雑賀(坂井)日向守の居城であったとの伝承がある。その後は加賀一向一揆の城となり、1580年の織田勢による加賀制圧・尾山御坊の攻略の際、この城でも戦いがあったらしく、一揆方戦死者の供養の碑が城の東側に建てられている。1583年には金沢城主前田利家の支城の一つとして、家臣不破彦三直光が城主であったと伝えられる。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い。高峠城は、二俣越(二俣道)を押さえ、佐々方の荒山城と対峙する城であったと推測されている(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。

 高峠城は、標高220mの山上に築かれている。山頂の主郭を中心に、東・西・南の三方に伸びる尾根上に舌状曲輪群を連ねただけの古風な縄張りである。東尾根は林道建設で一部破壊されたようで、あまり大した遺構は確認できない。南尾根には細長い曲輪が2段確認でき、その間には中規模の堀切が穿たれている。西尾根の曲輪群は尾根に沿って延々と伸びており、確認できただけでも5~6段の曲輪があるようだ。西尾根にも2本の堀切が確認でき、主郭の直下に小さいのが一つと4~5段目の間に中規模のものが一つ見られる。4段目の曲輪は北側に土塁を築いており、現在でも城の北側を通る道(これが二俣道なのだろう)に対する防備を意識していたことがわかる。
 只この高峠城、遺構はよく残っているが、全山笹薮に埋もれてしまっており、縄張りの細かい部分は確認できないのが残念である。
主郭の現況→IMG_4922.JPG
IMG_4935.JPG←西尾根の堀切と上段曲輪の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559446/136.748157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城 (歴史群像シリーズ特別編集)

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