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末次城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7115.JPG←主郭切岸と腰曲輪
(2020年11月訪城)
 末次城は、背継城・行延城とも言い、松波城の支城である。この地の土豪末次甚右衛門が城主で、1577年の上杉謙信による能登攻略の際に落城したと言われ、同年9月の松波城の落城と共に末次城も落城したと推測されている。

 末次城は、松波と宇出津を繋ぐ街道の東に張り出した丘陵上に築かれている。北西に突き出た丘陵全体を城域とした広域の城である。『能登中世城郭図面集』の佐伯氏は、主要部以外は自然地形か耕作地と判断して縄張図に載せていないが、実際に歩いてみるとそれでは説明つかないような平場や堀切状地形があるので、解説板の縄張図で示された城域が正しいものとして説明する。北麓に城主末裔の末次家の居宅があり、その脇から散策路が整備されている。各所に細かく標柱があるので、迷うことはない。城の中心となるのが周囲から切岸でそびえる主郭で、ほぼ長円形をしており、城址石碑が立っている。主郭の東側に鞍部の平地があり、東の2郭や南東に伸びる6郭・狼煙台へ通じる道の交差点のようになっている。前述の登り口から北大手口方面に登っていくと、ここに至る。この鞍部の平地の北には谷があり、現地表示では大竪堀とされているが、見た限りではほぼ自然地形のようである。「二の丸木戸口」「虎口」などの表示もあるが、これも明確な遺構は見られない。鞍部の平地の北東に一段高くなった平場が2郭とされ、ほぼ自然地形であるが城内では最も広い面積を有する。城主末次氏と共に木郎郷の郷士・郷民が立て籠もって戦ったと伝えられる城であるので、2郭は村民の避難区であったかもしれない。2郭の北側には舌状曲輪が突き出し、2郭の北東には堀切状地形と、一段低い5郭があるが、普請がささやかで自然地形との区別が難しい。その先はやはり大竪堀と表記される自然の谷があり、東大手口となっている。一方、主郭の南には幅広の堀切地形を挟んで3郭がある。この堀切地形の東西に竪堀が落ち、特に東側のものは二重竪堀となっている。3郭も長円形の曲輪で、南側に一段低い腰曲輪を伴っている。現地表示では空堀となっているが、現状からでは腰曲輪に見える。3郭の西には段曲輪の下に堀切があり、その西に4郭がある。3郭の南下方には空堀が穿たれ、鞍部の先に南出曲輪がある。物見台的な小郭である。主郭から3郭にかけての東側には腰曲輪があり、墓地となっていて、「軍勢駐屯場(陣屋)」の表示がある。前述の鞍部の平地から南東に伸びる尾根には外郭群があり、尾根の僅かな段差部には土塁の表示がある。その先は6郭とされ、自然の尾根だが両側に腰曲輪らしい平場がある。6郭の先に狼煙台と表示のある曲輪があり、北に突き出た平場の周囲に土塁が廻らされ、付け根には堀切が穿たれている。このあたりは明確な普請の形跡が見られる。
 以上が末次城の概要で、地元の有志の人達の手でよく整備されており、大事にされている城址である。
二重竪堀→DSCN7124.JPG
DSCN7166.JPG←3郭南の空堀
狼煙台の土塁→DSCN7095.JPG
DSCN7102.JPG←狼煙台付け根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.333825/137.208821/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

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  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
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