前沢城(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]
←主郭の土塁跡か?
前沢城は、葛西氏の家臣三田氏の居城である。三田氏の出自は不明だが、葛西氏の重臣柏山氏の家老で、奥州合戦後に葛西清重が奥州総奉行となると、柏山氏に仕えていた三田将監が前沢に封じられたと言う。以後、三田氏は前沢城主として16代約400年間にわたって前沢を領した。三田氏が史料に現れるのは1400年の宇都宮氏広の乱の時で、三田丹波守高盈は氏広の乱を鎮定した三迫合戦で葛西方として参戦して軍功を挙げ、胆沢郡数ヶ所を領するようになった。戦国時代に入ると、15代主計頭重明・16代刑部少輔義広はいずれも豪勇の将として名を轟かせ、伊達天文の乱や大崎氏との合戦で活躍した。しかし1588年、義広は主家柏山氏に逆意を抱いていると讒言され、柏山氏に討伐されて滅亡した。1590年に豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易され、葛西大崎一揆を通してこの地が伊達氏の領国に組み入れられると、伊達氏の家臣でかつて小浜城主であった大内定綱が前沢に入部した。定綱は前沢城を廃して南麓に居館(前沢所)を造営した。
前沢城は、比高50m程の丘陵先端部に築かれている。現在はお物見公園となっており、城内はかなり改変を受けている。改変が多いため往時の縄張りがはっきりしない部分もあるが、公園入口の車道は切通し道となっており、側方に土塁らしき土盛りを伴っているので、これが堀切跡で、この南が主郭、北が二ノ郭だったのではないかと思われる。公園化された主郭の外周は高くなっており、土塁跡と思われる。南端には一段低い平場があり、笹曲輪だった様である。また主郭の外周には、腰曲輪が確認でき、西側には腰曲輪を貫通して落ちる竪堀も、藪の中に確認できる。かなり改変を受けているので、遺構と断じ難い所も多いが、大まかな縄張りは想像できる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.049344/141.119041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
前沢城は、葛西氏の家臣三田氏の居城である。三田氏の出自は不明だが、葛西氏の重臣柏山氏の家老で、奥州合戦後に葛西清重が奥州総奉行となると、柏山氏に仕えていた三田将監が前沢に封じられたと言う。以後、三田氏は前沢城主として16代約400年間にわたって前沢を領した。三田氏が史料に現れるのは1400年の宇都宮氏広の乱の時で、三田丹波守高盈は氏広の乱を鎮定した三迫合戦で葛西方として参戦して軍功を挙げ、胆沢郡数ヶ所を領するようになった。戦国時代に入ると、15代主計頭重明・16代刑部少輔義広はいずれも豪勇の将として名を轟かせ、伊達天文の乱や大崎氏との合戦で活躍した。しかし1588年、義広は主家柏山氏に逆意を抱いていると讒言され、柏山氏に討伐されて滅亡した。1590年に豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易され、葛西大崎一揆を通してこの地が伊達氏の領国に組み入れられると、伊達氏の家臣でかつて小浜城主であった大内定綱が前沢に入部した。定綱は前沢城を廃して南麓に居館(前沢所)を造営した。
前沢城は、比高50m程の丘陵先端部に築かれている。現在はお物見公園となっており、城内はかなり改変を受けている。改変が多いため往時の縄張りがはっきりしない部分もあるが、公園入口の車道は切通し道となっており、側方に土塁らしき土盛りを伴っているので、これが堀切跡で、この南が主郭、北が二ノ郭だったのではないかと思われる。公園化された主郭の外周は高くなっており、土塁跡と思われる。南端には一段低い平場があり、笹曲輪だった様である。また主郭の外周には、腰曲輪が確認でき、西側には腰曲輪を貫通して落ちる竪堀も、藪の中に確認できる。かなり改変を受けているので、遺構と断じ難い所も多いが、大まかな縄張りは想像できる。
腰曲輪と竪堀→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.049344/141.119041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
コメント 0