上麻生城(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]
←宅地脇に残る水堀
上麻生城は、俘囚の長安倍頼時の家臣麻生玄長(はるなが)の居城と伝えられる。安倍氏の十二柵の一、大麻生野柵であったのではないかとも考えられている。『陸奥話記』によれば、前九年合戦の終盤の1062年9月、衣川関を攻略した源頼義・清原氏連合軍は鳥海柵に退却した安倍軍を追って胆沢郡に進軍し、同月7日に大麻生野・瀬原の2柵を攻略したと言う。後に大麻生野柵跡に上麻生城が築城されたらしい。中世の城主は、奥州合戦後に源頼朝から奥州惣奉行に任じられた葛西清重の家臣であったと考えられている。
上麻生城は、北上川西岸の平地にある。城の主要部は耕地整理により壊滅しているが、宅地の西側に水堀がわずかに残っている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、西から北にかけて堀で囲まれた区画が見える。南は小川の低地に面していたらしい。これらは現在は全て失われているが、内舘の地名が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.066556/141.157043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
上麻生城は、俘囚の長安倍頼時の家臣麻生玄長(はるなが)の居城と伝えられる。安倍氏の十二柵の一、大麻生野柵であったのではないかとも考えられている。『陸奥話記』によれば、前九年合戦の終盤の1062年9月、衣川関を攻略した源頼義・清原氏連合軍は鳥海柵に退却した安倍軍を追って胆沢郡に進軍し、同月7日に大麻生野・瀬原の2柵を攻略したと言う。後に大麻生野柵跡に上麻生城が築城されたらしい。中世の城主は、奥州合戦後に源頼朝から奥州惣奉行に任じられた葛西清重の家臣であったと考えられている。
上麻生城は、北上川西岸の平地にある。城の主要部は耕地整理により壊滅しているが、宅地の西側に水堀がわずかに残っている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、西から北にかけて堀で囲まれた区画が見える。南は小川の低地に面していたらしい。これらは現在は全て失われているが、内舘の地名が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.066556/141.157043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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