遅沢館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]
←主郭~二ノ郭間の堀切
遅沢館は、要害館・新城館とも言い、葛西氏の家臣及川氏の一族の居城である。館主は、柏木館(鳥海城)主及川美濃之助頼家の弟及川宮内源五郎義高と伝えられる。1559年に及川一族が葛西太守に武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)の際、遅沢及川氏も加担し、柏木館落城後に遅沢館も大原勢に攻撃された。義高と嫡男雅楽助は自刃して滅亡した。その後、天正年間(1573~92年)には、及川豊後が居住したと言う。おそらく及川氏一族の中でも及川騒動に加担せず、葛西氏に従った一族が封じられたのだろう。
遅沢館は、安昌寺背後の丘陵上に築かれている。東の丘陵基部を貫通する車道からちょっと登れば、すぐ城域である。東から順に、二ノ郭・主郭・三ノ郭が一直線に並んだ連郭式を基本とし、それらの周囲に帯曲輪を廻らし、更に主郭の北と南には段曲輪を築いている。二ノ郭は削平が甘く、ほとんど地山のままで北側は切岸もなくダラッとした緩斜面になっている。二ノ郭南側は明確な切岸があり、その下に帯曲輪が配置されている。二ノ郭から堀切を介して主郭があり、主郭の南北には帯曲輪と段曲輪が築かれている。特に北側では数段の曲輪が確認できる。北の段曲輪では根元には堀切が穿たれ、南では段曲輪の先に堀切が穿たれている。南段曲輪の堀切は二重堀切にも見えるが、外堀は南山腹を廻る溝状地形の一部となっているため、遺構かどうかはわからない。この南山腹の溝状地形は構築が真新しいので、往時の遺構ではなく、近代に城跡が畑となっていた時に、その関連で作られた溝だろうと思われる。一方、主郭の先には堀切を介して三ノ郭があるが、劇薮で進入不能であり、どこまで曲輪が広がっているのか、踏査できていない。以上が遅沢館の遺構で、堀切はあるもののあまり技工性のない、平凡な縄張りの城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.060108/141.400223/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
遅沢館は、要害館・新城館とも言い、葛西氏の家臣及川氏の一族の居城である。館主は、柏木館(鳥海城)主及川美濃之助頼家の弟及川宮内源五郎義高と伝えられる。1559年に及川一族が葛西太守に武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)の際、遅沢及川氏も加担し、柏木館落城後に遅沢館も大原勢に攻撃された。義高と嫡男雅楽助は自刃して滅亡した。その後、天正年間(1573~92年)には、及川豊後が居住したと言う。おそらく及川氏一族の中でも及川騒動に加担せず、葛西氏に従った一族が封じられたのだろう。
遅沢館は、安昌寺背後の丘陵上に築かれている。東の丘陵基部を貫通する車道からちょっと登れば、すぐ城域である。東から順に、二ノ郭・主郭・三ノ郭が一直線に並んだ連郭式を基本とし、それらの周囲に帯曲輪を廻らし、更に主郭の北と南には段曲輪を築いている。二ノ郭は削平が甘く、ほとんど地山のままで北側は切岸もなくダラッとした緩斜面になっている。二ノ郭南側は明確な切岸があり、その下に帯曲輪が配置されている。二ノ郭から堀切を介して主郭があり、主郭の南北には帯曲輪と段曲輪が築かれている。特に北側では数段の曲輪が確認できる。北の段曲輪では根元には堀切が穿たれ、南では段曲輪の先に堀切が穿たれている。南段曲輪の堀切は二重堀切にも見えるが、外堀は南山腹を廻る溝状地形の一部となっているため、遺構かどうかはわからない。この南山腹の溝状地形は構築が真新しいので、往時の遺構ではなく、近代に城跡が畑となっていた時に、その関連で作られた溝だろうと思われる。一方、主郭の先には堀切を介して三ノ郭があるが、劇薮で進入不能であり、どこまで曲輪が広がっているのか、踏査できていない。以上が遅沢館の遺構で、堀切はあるもののあまり技工性のない、平凡な縄張りの城である。
主郭~三ノ郭間の堀切→
←南段曲輪先端の堀切お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.060108/141.400223/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
2022-02-23 02:00
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