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鳥海城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7102.JPG←後部から見た二ノ郭と主郭切岸
 鳥海城は、柏木館・東館とも呼ばれ、葛西氏の家臣沖田及川氏惣領家の居城である。元は、及川氏の一族とされる鳥海加賀守秀政が城主であったが、1455年3月に主君葛西持信に背いたため、持信の命を受けた桃生郡の及川大膳光村に討たれて滅亡した。その後、鳥海氏の所領は光村に与えられ、光村は鳥海城に居城を移して鳥海及川氏の祖となった。光村・重村・重胤と3代続いたが、1529年に江刺氏と衝突して滅んだ。しかし光村系及川氏の子孫は、流庄永井・男沢・東山中川・登米上沼・鱒渕・本吉下鹿折等に一族が分立して土着したと言う。その後、鳥海城には川嶋館主及川主計頼高が移って家督を継いだ。しかし1558年、頼高の孫美濃之介頼家の時、葛西氏の本城寺池城で葛西氏の舎弟千葉三十郎信近と口論となり、信近を討ったため、頼家は所領を没収されて改易となった。この処置に憤激した東山の及川一族は、翌59年に総力を結集して武力蜂起した。これが及川騒動(柏木合戦)である。葛西太守は、大原城主大原飛騨守信茂及び登米の諸勢に及川氏を討伐させた。同年5月、鳥海城には及川一族惣領の美濃之介頼家・皆川茂助・伊藤三太夫・頼家の舎弟及川作十郎らが籠城し、2度に渡って大原勢を撃退した。しかし3回目の攻撃で大原勢は夜戦と焼打ちを掛け、8月15日、遂に鳥海城は落城、沖田及川氏は滅亡した。その後は、大原千葉氏系と推測される鳥海右馬丞(右馬允)が葛西氏改易まで居住したと伝えられる。尚、1590年の葛西大崎一揆の際には、鳥海城主鳥海美濃守頼勝が桃生郡中津山の軍勢に参陣したとされる。

 鳥海城は、興田川と鳥海川の合流点東側に突き出た比高40m程の丘陵上に築かれている。沖田及川氏惣領家の居城であるが、周辺の及川一族の諸城の中では最も簡素な縄張りとなっている。城への登道は、北麓の水田の奥に城跡まで通じる山道が残っている。かつて城跡を耕作地として使っていた時の作業道跡である。城は頂部に切岸で囲まれた主郭を置き、その周囲を囲む様に二ノ郭を巡らしている。二ノ郭は西側に伸びた曲輪で、更にその外周に腰曲輪1段を廻らしている。鳥海城はこの3郭だけで構成されている。主郭には土塁はないが、二ノ郭からは坂土橋の虎口で繋がっている。二ノ郭は広い曲輪であるが、大きく傾斜しており、かなり薮で覆われている。二ノ郭は、主郭の北側では上り坂になっており、東側の丘陵基部には堀切もなく、低土塁と斜面だけで区画されている。二ノ郭周囲の腰曲輪は、延々と伸びているだけである。
 縄張りには、全く技巧性はなく、基本的に居館機能だけの城だったと思われる。鳥海城を東館、興田川を挟んで対峙する位置にある川嶋館を西館とも呼ぶので、両城が一体となって機能していたものと考えられる。
二ノ郭周囲の腰曲輪→DSCN7114.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.055626/141.367714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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