御所平(長野県阿智村) [古城めぐり(長野)]
←御所桜と御所平
御所平は、南朝の後醍醐天皇の子・宗良親王(信濃宮)の皇子とされる尹良親王の御所があったと伝承される。しかし尹良親王については、その実在が疑わしい。尹良親王の事績を伝える『浪合記』も信憑性には疑いがあるので、おそらく尹良親王という宮はいなかったのだろう。しかし、より史料的価値があるとされる『鎌倉大草紙』には、「宮」を初め新田一門が信濃国浪合という所で皆討死したとあり、この南朝某宮は守永親王とする説がある。宮討死が史実であったとすると、この御所平付近には南朝某宮が潜幸していた可能性はあるだろう。
御所平は、和知野川上流域の浪合地区にある広々とした段丘上にある。しかし明確な遺構はなく、御所桜と言う大きな桜の木が目印となっているだけである。
尚、御所平の北西1.2kmには「南朝某宮」が討死した場所に建てられたと伝えられる浪合神社があり、境内には尹良親王の旧跡碑と陵墓があって宮内庁管理となっている。また周囲数百mの範囲には、親王と共に討死した新田一族などの武臣の陪塚3つが散在している。南朝の伝承を色濃く残す土地である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.371161/137.699912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
御所平は、南朝の後醍醐天皇の子・宗良親王(信濃宮)の皇子とされる尹良親王の御所があったと伝承される。しかし尹良親王については、その実在が疑わしい。尹良親王の事績を伝える『浪合記』も信憑性には疑いがあるので、おそらく尹良親王という宮はいなかったのだろう。しかし、より史料的価値があるとされる『鎌倉大草紙』には、「宮」を初め新田一門が信濃国浪合という所で皆討死したとあり、この南朝某宮は守永親王とする説がある。宮討死が史実であったとすると、この御所平付近には南朝某宮が潜幸していた可能性はあるだろう。
御所平は、和知野川上流域の浪合地区にある広々とした段丘上にある。しかし明確な遺構はなく、御所桜と言う大きな桜の木が目印となっているだけである。
尚、御所平の北西1.2kmには「南朝某宮」が討死した場所に建てられたと伝えられる浪合神社があり、境内には尹良親王の旧跡碑と陵墓があって宮内庁管理となっている。また周囲数百mの範囲には、親王と共に討死した新田一族などの武臣の陪塚3つが散在している。南朝の伝承を色濃く残す土地である。
尹良親王の陵墓→
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.371161/137.699912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:南北朝期の城郭
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