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田中城(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN2122.JPG←わずかに残る土塁
 田中城は、上伊那の豪族であった藤沢頼親によって1582年に築かれた城である。藤沢氏は、諏訪神(みわ)氏の庶流千野氏の一族で、戦国中期に藤沢頼親は福与城(箕輪城)を本拠として強大な勢力を誇っていた。しかし武田信玄の伊那侵攻によって没落し、京都に上って三好長慶のもとに身を寄せた。1582年3月、織田信長が武田氏を滅ぼすと、頼親は34年ぶりに伊那に戻り本領に復帰し、田中城を築いて居城とした。藤沢氏の復帰は信長の支援によると推測されている。そのわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、武田遺領の織田勢力は一挙に瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。伊那衆は当初、三河から伊那に侵攻した徳川勢に従属したが、その後北条氏の大軍が信濃に侵攻してくると、北条方に転じるものが相次ぎ、藤沢氏も北条方となった。しかしその後の情勢変化で北条方が苦境に陥ると、高遠城を奪取していた保科正直は徳川方となり、頼親にも徳川方への帰属を促したが、頼親はこれを拒否した。その結果、保科氏は軍勢を率いて田中城を攻撃し、頼親は懸命に防戦したが抗しきれず、城に火を放って自刃、藤沢氏は滅亡した。その後、飯田の小笠原氏の箕輪領統治の際、田中城に陣屋が置かれたと言う。

 田中城は、伊那地方の城にしては珍しい平地に築かれた平城である。現在は工場やスーパーが立ち並ぶ一角に、わずかに土塁を残しているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ると、長円形の主郭の周囲に堀を廻らし、更に外周に二ノ郭を廻らした環郭式の縄張りだったらしい。現状残る土塁はL字型をしているように見えるが、航空写真を見ると、L字型の塁線は該当しそうな場所にはないので、土塁の形状も変わってしまっている様である。1960年代には耕地整理で城のほとんどが破壊され、現在残る土塁以外は消滅しているので、更に改変された今では、現地で往時の城の縄張りを追うことは全くできない。町史跡として城址碑・解説板が立っているが、非常に残念な状況である。
昭和20年代前半の田中城→田中城航空写真1948.jpg
クリックで拡大可(出典:国土地理院の空中写真閲覧サービス)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.886799/137.988646/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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