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虚空蔵山城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN4921.JPG←峯の城の堀切と主郭切岸
 虚空蔵山城は、会田城とも言い、海野氏の庶流会田氏・会田岩下氏の居城である。会田氏は、海野幸継の次男幸持が会田郷に分封されて会田次郎を称したのに始まる。築城時期は不明であるが、幸持の後裔会田小次郎広政(広正)が虚空蔵山城に居住したと伝えられる。会田氏は室町時代に信濃守護小笠原氏の幕下となったが、応永年間(1394~1428年)頃に同族の会田岩下氏(以下会田氏と称する)に領主が変わったらしい。戦国時代に入って甲斐の武田信玄が信濃に侵攻するようになると、会田氏は度々抗戦した。1553年に武田信玄が小笠原長時を駆逐して北筑地方に侵攻し、虚空蔵山城に放火すると、会田氏は武田氏に降ってその配下となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、信濃府中を制圧した小笠原貞慶がこの地に侵攻し、かつて父の小笠原長時に反旗を翻し、甲斐武田氏に鞍替えした諸豪を相次いで討伐し、会田氏もその標的となった。会田氏は、本城の虚空蔵山城を捨て、覆盆子城に立て籠もって最後まで抵抗した。当主会田小次郎広忠が幼少だったため、家老の堀内越前守が戦ったが、間もなく越前守は討死して城は攻め落とされた。広忠は逃れて青木村の十観山で自害し、会田氏は滅亡した。

 虚空蔵山城は、標高1139mの峻険な虚空蔵山一帯に築かれた城砦群の総称で、山頂の峯ノ城、山腹の秋吉砦・中の陣城などで構成された複合城郭である。南西麓からだと比高400mを超える山だが、幸い南中腹に車道が通っており、そこからであれば山頂までの比高は200m強で済む。また登山道も整備されている。城は、①山頂の東西に伸びる尾根上に展開する、詰城に当たる峯の城、②主尾根の西端部に築かれた現(うつつ)城、③南西の支尾根に築かれた、本城に当たる中の陣城、④南中央の支尾根に築かれた秋吉砦、⑤秋吉砦の西側に展開する十二原沢上流曲輪群、⑥岩屋神社がある支尾根の曲輪群、⑦岩屋神社尾根の西隣の支尾根の曲輪群、等で構成されている。

【峯の城】
峯の城主郭の石積み跡→DSCN4983.JPG
 まず峯の城は、典型的な細尾根城郭で、いくつかの曲輪を築き、要所を堀切で分断しただけの簡素な城砦である。明確な平場は主郭とその西の二ノ郭ぐらいで、東尾根は岩場が多くほとんど曲輪の体をなしていない。しかし主郭の北面にはかなり崩れているが、石垣跡が残る。堀切も大きくはないものの形が明瞭で、二ノ郭の西に1本、主郭の東に3本の堀切が穿たれている。3本目では、堀底から北尾根に道が通じ、段曲輪群に繋がっている。更にその東に続く細尾根の先にも3本の堀切がある。また西の細尾根を降っていくと、途中に段曲輪群があり、その下方に四阿屋社の祠が祀られた平場があり、その背後に小さな堀切が穿たれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.367591/138.009803/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【現城】
DSCN4886.JPG←現城前面の堀切
 現城は、頂部に2段の平場を置いた小規模な砦で、前面に堀切を穿ち、主郭背後にも片堀切を穿っている。前面の堀切からは、斜面に竪堀が長く落ちている。いかにも物見を主体とした砦であったことがわかる簡素な構造である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364429/137.999010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【中の陣城】
中の陣城主郭の石垣→DSCN4586.JPG
 中の陣城は、前述の通り虚空蔵山城砦群の本城に当たる。城砦群の中で最も大きな曲輪(主郭)を持ち、主郭前面と西側の切岸には石垣が残り、後部には土塁と堀切が築かれている。後部の土塁は、東側で坂土橋状に伸びてL字型となっている。主郭の前面には前郭があり、その下に虎口が構築されている。南尾根の途中に数段の段曲輪があり、主郭の西下方にやや大きな馬蹄形曲輪があり、二ノ郭であったと思われる。二ノ郭の下方の南西尾根にも曲輪群があり、帯曲輪の他、堀切・竪堀などが残っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364464/138.006070/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【秋吉砦】
DSCN4743.JPG←秋吉砦から落ちる長い竪堀
 秋吉砦は、中の陣城より一回り小さな曲輪群で構成された砦で、一部に石積み跡が見られ、前面下方には竪堀群がある。これらの竪堀はいずれも長く伸び、特に西側のものは後述する十二原沢上流曲輪群の側方を貫通している。また上方の尾根筋には、小堀切の先にも多段式の小郭群が築かれ、かなり上方の段曲輪にも石垣が見られる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364827/138.008097/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【二原沢上流曲輪群】
大手虎口の大石→DSCN4741.JPG
 十二原沢上流曲輪群(谷間の平場群)は、現在は中の陣城への散策路の途中にある。10段程にも及ぶ平場群があり、多数の石垣が見られる。上方の曲輪には水の手がある他、大手虎口と思われる箇所には鏡石の様な大石が置かれている。平場群の側方には、秋吉砦から落ちてきた竪堀が貫通し、その脇に石が散乱していて竪石積みがあった様である。発掘調査の結果では、この平場群は当初寺などの宗教施設であったものを、戦国期に城砦化したものと推測されている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.364706/138.007550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【支尾根の曲輪群】
DSCN5016.JPG←帯曲輪に残る石積み
 岩屋神社がある支尾根の曲輪群は、峯の城の真南に築かれた曲輪群で、多数の帯曲輪群で構成されている。現在の虚空蔵山への登道は、この曲輪群を経由して登っている。帯曲輪の中には、石積みが残っているものもある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.366071/138.010447/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

曲輪後部の物見台→DSCN5036.JPG
 岩屋神社尾根の西隣の支尾根の曲輪群は、今回は時間の関係で先端部しか確認していないが、背後に小堀切と物見台のある砦的な曲輪が残っている。この曲輪の前面には堀切があるとされるが、実際に見た限りでは堀切とは認識できなかった。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.363997/138.010114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

 以上が虚空蔵山城の遺構で、遺構が広範囲に散在しており、求心性のない縄張りとなっている。しかもそれぞれが独立性の強い配置となっていて、戦国時代にこれらの城砦群が実際にどのように連携・運用されていたのか、なんとも謎が多い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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