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岩崎楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN7200.JPG←主郭背後の二重堀切
 岩崎楯(岩崎館)は、猿田彦神社の社殿によれば、平安末期の平治年間(1159~60年)に奥州藤原氏3代秀衡の家臣長崎主殿長徳が岩崎楯主であったと言う。一方、『風土記書上』では楯主は岩崎縫殿と伝えられる。また近藤氏の系図には、葛西氏の旧縁・近藤伊賀守忠清が近江国より下向し、岩崎の近藤氏の祖になったとある。時代の変遷により、楯主も変わったものであろうか。

 岩崎楯は、猿田彦神社背後の丘陵上に築かれている。神社社殿が建つ先端の平場も城域であったと考えられる。神社の平場の後ろに2段の平場があり、奥が主郭である。主郭は広く、南北に腰曲輪が築かれ、南中央部に虎口が築かれている。主郭の後部は高台となっており、背後に土塁が築かれ、更に二重堀切が穿たれて丘陵基部を分断している。この二重堀切は、非常に綺麗で見応えがある。一方、主郭の南西にも堀切が穿たれ、外に物見台が築かれている。どうもこの堀切は木戸口であったらしく、斜面下方に城道が伸びていたらしい。物見台はこの木戸口を防衛する堡塁であったと考えられる。前述の二重堀切の先は地山のままの地形が続くが、北東の窪地に平場があり、その後部にあたる北尾根に堀切があり、その先に舌状曲輪が築かれている。どこまでが城域だったのか判然としない部分もあるが、基本的には二重堀切までが城域で、北の舌状曲輪は出丸だったのだろう。部分的に少々薮が多いが、見応えのある遺構が山林内に眠っている。
南西の堀切と物見台→DSCN7157.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.822499/141.041182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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タグ:中世平山城
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