時田館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]
←主郭西の水堀・土塁
時田館は、歴史不詳の城館である。時田館のある尻平川流域は鎌倉時代には室対郷と呼ばれ、和賀景行が相続していた。景行は須々孫氏の祖と言われ、南北朝時代には南朝方として活動した。しかし1352年に須々孫行義は北朝勢との戦いに敗れ、所領を和賀氏本家に没収された。その後、室対郷が他氏に分与された形跡がないことから、そのまま和賀氏本家に返還されたと考えられている。その後の変遷は不明であるが、時田館は地侍の時田氏の居館であったとされる。
時田館は、尻平川西岸の比高わずか10m程の段丘辺縁部に築かれている。沢筋を挟んで南北に曲輪があり、南に主郭があり、北には西郭・東郭が東西に並んでいる。主郭は民家の敷地となっているので、内部探索はできないが、西側に一直線状の土塁・堀(一部は水堀)が残っている。主郭北の沢は、天然の堀として機能しており、また水の手を兼ねていたのだろう。東郭は三角形の曲輪で南東に向かって突出している。西郭との間には浅い空堀が穿たれている。西郭は東郭より一段高く、方形に近い形状で、北以外の3方に土塁を築いている。以上が時田館の遺構で、それほど見応えのある遺構があるわけではないが、土塁と空堀はよく残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.329177/140.978000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
時田館は、歴史不詳の城館である。時田館のある尻平川流域は鎌倉時代には室対郷と呼ばれ、和賀景行が相続していた。景行は須々孫氏の祖と言われ、南北朝時代には南朝方として活動した。しかし1352年に須々孫行義は北朝勢との戦いに敗れ、所領を和賀氏本家に没収された。その後、室対郷が他氏に分与された形跡がないことから、そのまま和賀氏本家に返還されたと考えられている。その後の変遷は不明であるが、時田館は地侍の時田氏の居館であったとされる。
時田館は、尻平川西岸の比高わずか10m程の段丘辺縁部に築かれている。沢筋を挟んで南北に曲輪があり、南に主郭があり、北には西郭・東郭が東西に並んでいる。主郭は民家の敷地となっているので、内部探索はできないが、西側に一直線状の土塁・堀(一部は水堀)が残っている。主郭北の沢は、天然の堀として機能しており、また水の手を兼ねていたのだろう。東郭は三角形の曲輪で南東に向かって突出している。西郭との間には浅い空堀が穿たれている。西郭は東郭より一段高く、方形に近い形状で、北以外の3方に土塁を築いている。以上が時田館の遺構で、それほど見応えのある遺構があるわけではないが、土塁と空堀はよく残っている。
西郭~東郭間の空堀→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.329177/140.978000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
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