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龍ヶ崎城(長野県辰野町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3738.JPG←堀切と二ノ郭
 龍ヶ崎城は、伊那谷から善知鳥峠を越えて府中・松本平へ抜ける交通の要衝に築かれた城である。築城者・築城時期は不明であるが、『神長官守矢満実書留』の1464年条に記載されているのが文献上の初見である。1487年には、高遠の諏訪継宗が龍ヶ崎城を取り立てて支配した。1544年から下伊那に侵攻を開始した武田信玄は、翌1545年4月、箕輪福与城の藤沢頼親を攻撃したが、頼親の義兄であった信濃守護・林城主小笠原長時は、福与城の援軍として龍ヶ崎城に陣を敷いた。信玄は、5月21日に小山田信有らにこれを攻撃させ、6月に至って武田氏の重臣板垣信方が龍ヶ崎城を攻め落とし、長時は府中へ逃げ帰った。この結果、頼親は和議を結んで福与城を開城して城を出、福与城は武田勢に放火破壊された。その後の龍ヶ崎城の消息は不明である。

 龍ヶ崎城は、比高120m程の山上に築かれている。公園化されており、南東麓から登山道が整備されている。登ってすぐに平場があり、龍ヶ崎公園となっているが、後部には土塁と堀切が残り、大手の曲輪であったと考えられる。そこから急な尾根を登っていくと、やがて傾斜が緩くなり、小郭や堀切が現れる。更に登ると前衛の三ノ郭があり、背後を堀切で遮断している。その上に二ノ郭がある。二ノ郭は後部に物見台の土壇を築き、背後を堀切で遮断している。この堀切は西側で三重竪堀となっている。堀切の上には主郭がそびえている。主郭は小さく、周囲に土塁を築いてすり鉢状になっている。主郭の背後には深い堀切が穿たれ、主郭の西側下方には、この堀切と連携して畝状竪堀が穿たれており、形がよく残っている。主郭背後の堀切は小堀切と組み合わせた三重堀切となっており、東斜面には更に竪堀1本が足されている。その先は細尾根が続くが、散発的に小堀切と竪堀が数本穿たれている。この内、宮坂氏の描いた縄張図で言うと、「ク」の竪堀は下方に長く落ちている。城域北端は小平場と浅い堀切で区画されているが、あまり防御が固いようには見えない。龍ヶ崎城は、信濃守護が本陣を置いたにしては小さい城で、中枢部だけ集中的に堀切や畝状竪堀で守りを固めている。
主郭西側の畝状竪堀→DSCN3721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.989405/137.976941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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