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富崎城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9330.JPG←主郭の空堀
 富崎城は、滝山城・福山城とも呼ばれ、戦国時代に射水・婦負郡守護代であった神保氏の有力支城の一つである。伝承では、1441年に神保八郎左衛門が居城したと言われる。戦国前期の天文年間(1532~55年)に、富山に進出した神保長職が本格的に築城したとされる。長職は、永禄年間(1558~70年)に越後の上杉謙信に富崎城を攻められ、1562年の戦いで謙信に降り、上杉氏に属して増山城に居城を移した。元亀年間(1570~73年)に長職が没すると、富崎城には長職の旧臣水越氏が一向一揆と共に立て籠もり、1572年9月に謙信に攻撃されて落城した。この時謙信は、城内を悉く焼き払い、城を取り壊したと言う。天正年間(1573~92年)には一時上杉氏が支城として使ったと見られ、1581年には神保氏旧臣の寺嶋牛之助・小嶋甚助兄弟が富崎城を拠点に織田氏に抵抗したが、5月に織田軍の攻撃を受けて落城し、寺嶋氏らは大道城に逃れて抵抗を続けたが、後に和を結んで佐々成政に属した。寺嶋氏らが落ち延びた後の富崎城は、佐々氏の支城となったと見られるが、この時に廃城になったとの説もある。

 富崎城は、山田川南岸の段丘上に築かれている。段丘北西端部を三角形に区画した城域を有している。城は大きく南北2郭に分かれ、北が主郭、南が二ノ郭である。主郭内にはわずかな段差があり、井戸跡も残っている。主郭南には空堀が穿たれ、空堀は南西で直角に折れて崖線まで掘り切っている。空堀中央部には土橋が架かり、二ノ郭に繋がっている。土橋の先は一段高くなっていて、現地解説板では馬出しとしているが、私の定義では馬出しではなく虎口郭である(馬出しは空堀で囲まれた独立小郭。虎口郭は主郭または他の曲輪に付随する小郭で、空堀で囲まれておらず独立性が高くない)。二ノ郭周囲にも空堀が穿たれ、横矢掛りが数ヶ所設けられている。主郭・二ノ郭の東側には腰曲輪が築かれ、腰曲輪の中央部には堀底道が外に向かって設けられて枡形虎口を形成している。この他、主郭の北斜面にも、段曲輪群と2本の堀切が穿たれており、川岸からの接近を阻止している。富崎城は、遺構はよく残っているが、二ノ郭など未整備の薮に覆われていて、遺構の確認がし辛い部分もある。また空堀の規模もそれほど大きくはなく、台地側からの要害性がそれほど高いとは言えず、長職没後はあまり積極的な使用はされなかったように感じられた。
北斜面の堀切→DSCN9310.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.642847/137.117615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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