王滝城(長野県王滝村)
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王滝城は、木曽左京大夫義元が飛騨勢や美濃勢の侵攻に備えて築いた城である。1504年7月、飛騨の三木重頼が兵数百で木曽に侵攻し、義元の部将上野肥後が守る上島砦を攻め落とした。義元は自ら兵を率いて王滝城に入り、三木勢を迎撃しようとしたが、態勢が整わないうちに三木勢の攻撃を受けて王滝城は落城し、義元は退却中に追撃を受け、この時に受けた傷が元で没した。1555年8月に武田信玄が木曽に侵入した際、木曽義康(義元の孫)は飛騨勢と戦うために王滝城に在城し、その子義昌は福島城を守っていた。武田勢が軍勢を分けて両城を攻撃すると、義康は抗しきれず信玄と和睦して服属した。
王滝城は、ダム湖である御岳湖の南岸にある突出した段丘上にあったらしい。ダム建設以前は王滝川に臨む断崖上の段丘であった。現在はグラウンドや空き地となって改変されており、明確な遺構は残っていない。『信濃の山城と館』の縄張図では、この段丘の北西端が一段高くなっていて社が祀られていたらしいが、この高台も湮滅してしまっている。背後の比高100mの山の峰に主郭があったとも言われるが、CS立体図で見ても曲輪らしい遺構は残っていないようである。王滝城は木曽防衛のための重要な城であったが、解説板はおろか標柱すらなく、全く往時の姿を知ることはできない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.810287/137.588975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
王滝城は、木曽左京大夫義元が飛騨勢や美濃勢の侵攻に備えて築いた城である。1504年7月、飛騨の三木重頼が兵数百で木曽に侵攻し、義元の部将上野肥後が守る上島砦を攻め落とした。義元は自ら兵を率いて王滝城に入り、三木勢を迎撃しようとしたが、態勢が整わないうちに三木勢の攻撃を受けて王滝城は落城し、義元は退却中に追撃を受け、この時に受けた傷が元で没した。1555年8月に武田信玄が木曽に侵入した際、木曽義康(義元の孫)は飛騨勢と戦うために王滝城に在城し、その子義昌は福島城を守っていた。武田勢が軍勢を分けて両城を攻撃すると、義康は抗しきれず信玄と和睦して服属した。
王滝城は、ダム湖である御岳湖の南岸にある突出した段丘上にあったらしい。ダム建設以前は王滝川に臨む断崖上の段丘であった。現在はグラウンドや空き地となって改変されており、明確な遺構は残っていない。『信濃の山城と館』の縄張図では、この段丘の北西端が一段高くなっていて社が祀られていたらしいが、この高台も湮滅してしまっている。背後の比高100mの山の峰に主郭があったとも言われるが、CS立体図で見ても曲輪らしい遺構は残っていないようである。王滝城は木曽防衛のための重要な城であったが、解説板はおろか標柱すらなく、全く往時の姿を知ることはできない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.810287/137.588975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
2024-02-17 02:00
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