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丸岡城(山形県鶴岡市) [古城めぐり(山形)]

DSC06352.JPG←外堀跡
 丸岡城は、庄内と山形を結ぶ六十里越街道を押さえる要衝で、庄内の大宝寺武藤氏によって支城が置かれた。もともとの築城時期は不明のようだ。一時期、大宝寺義氏の弟丸岡兵庫頭義興が在城した。義氏は内政を省みることなく外征に明け暮れたため、領土は大宝寺氏としては最大版図になったものの国人衆の離反を招き、前森蔵人(のちの東禅寺筑前守)の謀反であっけなく滅びた。その後は、義興が家督を継いで本拠の尾浦城に入り東禅寺氏と争ったが、東禅寺氏を後援する最上氏の攻勢によって、尾浦城は落城、義興も滅んだ。その後、上杉・最上両氏による庄内争奪戦が繰り広げられ、結局庄内は上杉領になった。しかし1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が覇権を確立すると、庄内は敵対した上杉景勝から没収、功のあった最上義光に与えられた。元和の一国一城令が出ると丸岡城から楼閣が取り払われた。1622年に最上氏が改易されると、譜代大名の酒井氏が庄内に入封した。1632年、肥後の大大名で加藤清正の後嗣忠廣は突然改易を命ぜられて庄内に配流され、この丸岡の地に置かれた。酒井氏は、忠廣のために居館や家臣の長屋などを建設したという。
 そんな縁があって、この城は庄内の中世城郭というよりも、加藤氏の流された城という方が有名である。忠廣は配流の際、密かに父清正の遺骨を運び、天澤寺に五輪塔を建てて葬っており、それは現在も残っている。また清正を祀った清正閣や忠廣の母正応院の墓、家臣の墓などもある。
 肝心の城跡は、現在はただの空き地になっている。北側には堀跡(復元らしい)が残っているが、城らしい痕跡はそれだけで空き地には石などがゴロゴロ転がっていて荒れ果てている。現在、整備事業が進められているらしく、訪城当日も業者さんが作業を行っていた。そのほかでは、井戸跡や百間堀跡などが復元されているが、ほとんど遺構として見るべきものは無い。地方自治体の財政事情の厳しい中、城址公園として整備が完了するのはいつの日か?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.681188/139.831624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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ノリパ

こんにちわ。それがしのブログへのご訪問ありがとうございます。
以前水戸には住んでいましたが、それより北は不案内です。
参考にさせていただきます。
by ノリパ (2008-12-14 17:07) 

アテンザ23Z

ノリパ様
私の拙いブログへの訪問ありがとうございます。
いろいろお互いの城の情報など交換できれば幸いです。
by アテンザ23Z (2008-12-16 02:40) 

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