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荒砥城(山形県白鷹町) [古城めぐり(山形)]

DSC06668.JPG←北側に残る空堀跡
 荒砥城は八乙女城とも言い、荒砥市街の比高15m程の独立丘陵上に築かれた平山城である。伝承によれば、1087年に八幡太郎源義家が石清水八幡宮を勧請した事に始まるとされ、その後、石灘監物が八乙女八幡神社を建立し、1096年頃に藤原清衡の家臣荒川次郎清泰が八乙女ヶ丘に城を築き、更に室町初期には儀山公伊達政宗(戦国末期の独眼龍政宗とは同名異人)の家臣馬場将監が城郭として整備したと言う。その後、1598年、上杉景勝の会津入封に伴い上杉領となった。荒砥城は最上領との国境に当たる重要な地であったため、上杉家家老で米沢城主の直江山城守兼続は、直臣泉沢河内守久秀を置き、鮎貝城には中条与次三盛を置いた。奥州の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦の折には、泉沢久秀と中条三盛はこの地を出立して八ッ沼城を攻めた。また上杉本軍を率いた直江兼続は、荒砥城にあった御楯稲荷神社で戦勝祈願をしたとも伝えられている。
 荒砥城は平野部の独立丘陵を城塞化したもので、現在は八乙女八幡神社などが置かれ、公園として整備されている。改変は受けていると考えられるものの、本丸を始め、二ノ丸や周囲の腰曲輪・切岸などが明確に残っており、参道横には蛇井戸と呼ばれる井戸跡も残る。またかつては丘陵周囲を水堀・空堀が取り巻いていたらしいが、現在では市街化でほとんど湮滅し、わずかに城の北側に空堀跡が残るのみである。街中の城にしては、遺構の残存状況は良好な方である。
本丸周囲の腰曲輪→DSC06691.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.186690/140.098300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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