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延沢城(山形県尾花沢市) [古城めぐり(山形)]

DSC08459.JPG←大手道の先にある枡形虎口
 延沢城は、1622年までは野辺沢城と書き、別名を霧山城とも言い、尾花沢盆地東部の古城山と呼ばれる丘陵上に築かれた山城である。東の山中にある延沢銀山と合わせて国の指定史跡となっている。城の歴史は比較的新しく、1547年に野辺沢薩摩守満重が築き、以後能登守光延、遠江守光昌と野辺沢氏3代の居城となった。野辺沢氏の出自には2説あり、算学兵術の達人日野大学頭昭光が始祖とも、又、東根城の小田島氏の庶流とも言われている。いずれにしても延沢城を築いた野辺沢氏は、延沢銀山を押さえて富強を誇り、天童八楯(最上八楯)の旗頭として天童氏に従った。最上義光が天童氏を攻めると、野辺沢能登守光延は天童八楯の中心として奮戦し、最上氏に対抗した。義光は天童八楯の切り崩しを図り、娘を光延の嫡子又五郎に嫁がせ、これによって野辺沢氏は義光に従うこととなった。3代光昌は、義父の最上義光に従って長谷堂城合戦、庄内攻略戦で活躍した。しかし1622年の最上氏の改易によって城を追われ、延沢城は徳川幕府に没収されて、山形城主鳥居氏の管理下に置かれたが、最終的に1667年に破却された。

 延沢城は近世城郭として整備された城らしく、虎口の造りが非常に端正で見事である。比高130m程で、整備された登山道を登っていくと、水の手曲輪を左に眺めつつ七曲と呼ばれる大手道を登ることになる。山上に到達すると、土塁で構築された見事な枡形門が出迎えてくれ、これを右に曲がると再び土塁で築かれた見事な櫓門を通過して本丸に至る。櫓門のところに若干の石が散在していたので、石垣が作られていた可能性がある。縄張りは、南端の山頂部を本丸とし、そこから北側に延びた尾根上の緩斜面に階段状に曲輪を連ねた連郭式が基本プランとなっている。本丸の南端には搦め手口の小さな枡形虎口があり、その下に2段ほどの小さな段曲輪が配置されている。この虎口にも若干の石が見られるので、往時は石垣だったかもしれない。一方、本丸の東端には小さな櫓台が築かれ、ここからは東斜面に造られた8郭・9郭の二つの曲輪を監視することができる。本丸の北には、2段の腰曲輪(7郭・10郭)を東側に伴いつつ2郭~6郭が段々に並び、その先を大堀切で遮断して、更に11郭があって、その先をまた堀切で分断して城域が終わる。大堀切のところには天人清水と呼ばれる池があり、水の手としても利用されたのだろう。またこの大堀切は西斜面では二重竪堀に変化している。一番北の11郭にも東側に枡形虎口が作られ、堀切上に土橋を設けて連絡路を確保している。全体に虎口以外には土塁の少ないしろだが、北端を防御するこの11郭だけは土塁が築かれて、堀切の防御性を増している。古城山の南西麓には平坦地が広がり、かつての三ノ丸であった。

 遺構はほぼ完存しており、往時の状況が目の前に浮かんできそうな見事な城である。ただ、指定史跡とは名ばかりで、本丸以外は藪だらけでまだあまり整備されていない。ちなみに本丸では発掘作業がされているようだ。行ったのがもう5月に入っていたので、急激にシダが葉を伸ばし始めていて、城全体が藪に埋もれつつある状況だった。

 尚、延沢城は移築されて現存している門が3つもあるので、ついでに見ておきたいところである。
本丸入口の櫓門の枡形→DSC08467.JPG
DSC08594.JPG←大堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.567948/140.467608/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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