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人見氏館(埼玉県深谷市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC10246-1.JPG←北側の二重土塁と空堀
 人見氏館は、平安時代末期に人見氏が築いた館跡である。人見氏は、武蔵七党の一、猪俣党の河勾(かわわ)政経が人見郷に入部して人見六郎と名乗ったのに始まると言う。その後人見氏は、鎌倉幕府の御家人として活躍した。殊に『太平記』第6巻には楠木方の手勢の立て籠もる赤坂城攻撃に向かった鎌倉幕府軍の中に人見四郎恩阿がおり、恩阿は本間九郎資頼と共に先駆けして壮絶な戦死を遂げたことが記されている。その後、室町初期に人見氏は丹波に移ったと言う。室町中期になると、深谷上杉氏の一族の上杉憲武が、館跡を改修して居住した。
 人見氏館は、宅地化や耕地化で一部湮滅しているが全域の半分ほどの遺構が残っていて、特に押切川に沿って土塁と空堀が残っている。しかし、風化したのか埋められたのか、土塁は低くなっている一方で空堀はかなり浅くなっており、それほどの感慨を呼び起こす規模のものではない。この川沿いの土塁は二重土塁になっていて、北側の防御を意識していたことが伺われる。館の南側や東側の土塁は現在では残念ながら湮滅してしまっているが、現地解説板にある昭和初期の実測図からすると、東西に3つの曲輪が連なった構造であったようだ。おそらく元々は単郭方形居館であったものを、上杉憲武が入った際に規模を拡大したのであろう。一番西側の曲輪は、四周を取り巻く土塁が残っているようだが、夏でもあり雑木林の中に埋もれていてよく確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.172266/139.266043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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fuzzy

埼玉県は歴史の表にあまり出てきませんね、鎌倉期から戦国にかけて意外と面白い話が多いのですが、事柄が地味なのは事実ですけどね。
by fuzzy (2009-09-27 13:42) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
やはりこれという有力な大名がいなかったからでしょう。
川越夜戦以後は、小田原北条氏に制圧されちゃいましたしね。
でも、源平争乱期に名高い坂東武者をたくさん輩出した埼玉は、
その足跡がちゃんと残っていて羨ましいです。
by アテンザ23Z (2009-09-27 16:55) 

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