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真里谷城 その1(千葉県木更津市) [古城めぐり(千葉)]

DSC00726.JPG←千畳敷の横堀状の虎口
 真里谷城は、真里谷武田氏の居城である。真里谷武田氏は武田信玄で有名な甲斐守護家武田氏の一流で、13代武田信満の次男信長が享徳の乱の際に古河公方足利成氏に味方して、上総の守護代に任ぜられたことに始まる。1456年に上総に入部した信長は真里谷城と庁南城を築いて、真理谷城には嫡男信高を置き、自らは庁南城に拠って上総支配の拠点とし、以後真里谷武田氏と庁南武田氏が並立した。また大多喜根古屋城久留里城椎津城などの支城網を整備し、一族を配置して上総支配の体制を固めた。4代真里谷信勝は、足利成氏の孫義明を擁立して里見氏とも手を結んで勢威を誇ったが、その後一族の内紛で勢力が衰え、小田原北条氏の勢威が房総に伸びてくると、北条氏と里見氏に挟まれる形となり、徐々に勢威を失っていった。最後は里見氏に従っていたようだが、小田原の役の際に去就を明確にしなかったため、徳川勢に攻められて没落したという。真里谷城はこの時廃城となったとも、それ以前に放棄されていたとも言う。

 真里谷城は人里離れた奥地の山上に築かれており、よりによってなぜこんな山奥に城を築いたのか、不思議でならない。周囲の谷筋からの比高は50m程で、それほど急峻な山ではない。現在城跡は少年自然の家というキャンプ場になっている為、改変を受けている部分もあるが、遺構は概ね良好に残っている。さすが名門甲斐武田氏の流れを汲む一族の居城らしく城域は広大で、主郭エリアだけで並みの山城ぐらいの広さを有する。主郭エリアの中心にはほぼ長方形の千畳敷と呼ばれる曲輪があり、周囲を土塁で厳重に防御するほか、横堀状の虎口を設けて腰曲輪からの侵入に対して備えを成している。その他にニノ郭エリア・三ノ郭エリア・四ノ郭エリアがあり、それぞれに多数の腰曲輪と要所に土塁・堀切を築いて守りを固めている。ただ、キャンプ場として整備されているのは主郭エリアだけで、ニノ郭までは何とか入れるが、三ノ郭・四ノ郭は完全に藪化しており、夏場に入ることは困難である。折角素晴らしい遺構なのだから、全域を手入れしてくれればと惜しまれる。行くなら冬場に限る城である。
主郭南側の堀切→DSC00683.JPG

DSC00719.JPG←千畳敷と背後の高土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.343473/140.112200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※後日の三ノ郭・四ノ郭の訪城記はこちら
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fuzzy

日本の武家はほぼ源氏に由来しています、里美氏も武田氏も清和源氏の流れを汲む一族です、源氏は同系で戦うことを常にしています、頼朝の時代から源氏が協調していれば、現在も日本は源氏が治めた国かも知れませんね、足利氏・新田氏や薩摩の島津・長州の毛利も鎌倉幕府の出です、
時代変わりは常に源氏なのです。
千葉は久留里・大多喜など在りますね、今回も楽しみにしています。
by fuzzy (2009-11-04 14:44) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
応援ありがとうございます。
日本の長い武家中心の歴史の中で、源氏の存在感は圧倒的ですね。
源平交代思想に基づいて、平氏を名乗っている武家もありますが、
源氏に比べると平氏はちょっと霞んでいますね。
やはり源平争乱の際に、徹底的に一族討滅されたのが響いたのでしょう。
by アテンザ23Z (2009-11-05 02:11) 

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